ア ジア農民共に生きる会会報

Association of Asian Farmers for Cooperative Living (AFCoL)

〜有機農業によってアジアの農民の自立に協力しよう〜

発行:2006年10月   第14

活動を終えて
戸松正

 9月3日屋後君が再渡航し、農場の移譲を中止し、農場を畳む事になった。屋後本人はもちろんのこと、私にとっても断腸の思いである。
 私たちの活動の総括については国際協力の専門家である矢澤さんにまとめて頂いたので熟読いただければ幸いです。
 まずこの5年間猪突猛進の私を支えて頂いた会員、理事の方々に深くお礼を申し上げます。
 私自身国際協力の専門家ではなく、海外での協力活動に未熟な為、多くの理事や会員の支えによって無事5年間大きな問題も起らずこの活動を終えることがで きたことに感謝しております。
 私たちの直接的な活動はここで終わるが、その間5年かかわった多くのインドネシア人によって徐々にスマトラにおける有機農業運動は広がっていくであろ う。特に当初1年間活動を共にしビナガ村農業トレーニングセンターのウェスリー リンガ氏は農村青年の有機農業研修を行い、既に250人の研修を送り出し ている。また、友人であるメソジスト教会のジョンセン氏はシアンタールの村で、農民をオルグし、養豚を含めた有機農業の活動を開始している。また、NGO のビトラは有機農業での果樹栽培を開始したし、シンテーサは農民に有機稲作を指導している。
 私たちの農場の卒業生も小規模ながら自分の田舎で有機農業を続けている。
 農場を畳む結論を出したところ一つ大きな明るい方向が見え出した。試験場の場長シララヒさんが私たちと3年半活動を共にした若いサストラを試験場の有機 農業専属スタッフとして雇用するというのである。職員全員が大学卒業にもかかわらず高校卒業の私たちのスタッフが国立の試験場に入る事になった。そして私 たちの活動を継続し、今までの私たちの消費者にも野菜を供給するというのである。
 今、ウェスリー氏やジョンセン氏を通じスマトラやインドネシア内でのネットワーク作りを呼びかけている。自分達の技術や考えを共有し、お互いに刺激し合 い高め合って頂きたいからだ。また、資金不足の現地団体にあってはウェスリー氏にアジアコミュニティートラストを紹介したように、日本の助成団体を探し始 めている。
 わずか5年の小さな小さな活動ではあったが、スマトラに有機農業の種は播かれたことだけは事実であろう。今後は彼ら自身によって、この活動を広めていっ て頂きたいと熱望している。

9月の再渡航
屋後浩幸

 7月の上旬、インドネシア人スタッフへ活動の全てを引き継いで、日本へ帰国しました。
 それから2ヶ月経った9月にブラスタギを再度訪れました。今回の任務は日本人なしで活動がどのように進んでいるか確認し、活動をインドネシア側に完全に 移 譲するかどうかを判断するものでした。2ヶ月間日本に戻っていた際、ブラスタギに電話連絡して現状を確認しても特に問題は無いと報告を受け、楽観的に今回 の渡航を見ていました。
 しかし、迎えに来てもらった農場の車の変わり果てた姿を見て直感的に活動の酷さを感じました。
車輌の購入時から、車の私的利用は私を含めて禁止しており、7月の帰国の際にもスタッフと車の使用は野菜の収穫と配送のみ(野菜の配送は毎回ドライバーを 雇っていました)に限定して、私的使用の禁止を書面で再度約束させました。しかし、迎えに来てくれたスタッフからの報告で、マネージャー格のスタッフがほ ぼ毎晩のように車輌を私的利用し、事故も最低3回ほど起していたことを知らされました。彼は免許を持っておらず、約束を破り、その上私やメダンでこの活動 のアドバイザー的な役割を引き受けてくれた友人のジョンセン氏(アジア学院卒業生)へも虚偽の報告をしていました。人身事故を起していなかったのが唯一の 救いでした。
 そこから雪崩のように活動の惨状が明らかになってきました。
 草原のようになってしまった圃場。汚さを更に増した宿舎。消費者からの活動に対するクレームの携帯メール。スタッフ間に漂う陰気な空気。今回の渡航を ちょっとした旅行として捉えていただけに、精神的落差は大きかったです。
 翌日、スタッフ一人一人と話し合い、私のいなかった2ヶ月間の現状と今後についてのそれぞれの意見を聞き、問題点を明確にしていきました。そして活動を 如 何にして立て直していくか計画を練りました。スタッフの話からこんなにも農場が悲惨になり、野菜の質もかなり落ちているのにも関らず、消費者の数は思った より減っておらず、多くの方が引き続き私たちを信用してくださっているが分かりました。その事に感謝の念で一杯で、消費者の為にも活動を何とかしようと考 えました。
 問題を起したスタッフの解雇と残った4人による新体制の構築、そして友人のジョンセン氏の更なる協力を取り付けて活動を続ける方向で事を進めました。し か し、今回の問題の大きさ、つまりインドネシア人スタッフによる約束の反故という私たちの間の信頼関係を破壊する行為に日本の事務局から活動の継続に対する 否定的な意見が知らされました。活動を継続した場合、違うスタッフが車輌を私的利用して今度は人身事故を起す可能性も否定できません。そして、その責任を 「生きる会」や私個人が背負うことは困難です。
 結局、ブラスタギに来てから10日余りで活動の中止を決めました。活動が終わる悔しさはありましたが、3年半やるだけの事はやり多くの消費者から信頼さ れ 必要とされてきただけに充実感はありました。そして自分で決めた結論に後悔の念はありませんでした。
 スタッフ、活動地の試験場の方々、消費者そして多岐にわたり協力してくれた友人たちに活動の中止を伝え、多くの方が残念がって下さりました。そして、他 に 継続の方法はないか再考を促されました。しかし、今回は観光ビザでインドネシアを訪問しており、残された滞在期間は2週間程しかなく、私の帰国までに活動 を終了させないと更なる問題が起ります。その為、それ以後は撤退に向けて作業を始めました。
 今回の渡航で一番辛かったのが、活動終了に伴う残った4人のスタッフとの金銭面での交渉でした。突然の活動中止により、彼らは職を失います。また、今回 の 事件に関して問題を起したのはマネージャー格の1人であり、直接的な責任は彼ら4人にはありません。彼らとは労働についての簡単な契約しか結んでおらず、 退職金についてもインドネシアの企業などと比べると無いに等しいものでした。また、当団体はNGOであり慈善活動を行っているから企業とは異なると考えて いた点がありました。しかし、彼らにとってはNGOであれ、なんであれ労働者であることには変わりなく、その意識の差が問題をより大きくしました。さらに 私自身インドネシアの労働に関する法律や慣習を全く知りませんでした。
 交渉が始まると、契約の不明確さを利用してインドネシアの法律や慣習を知らない金持ちの国、日本から来た者から取れるだけ吸い取ってやろうという感じを 彼 らからもろに受けました。険悪な状況で進む折衝時には具体的な金額で揉めただけでなく暴力沙汰になる雰囲気も感じました。そして今まで活動を共にしてきた スタッフの変容さは精神的にこたえました。先行きの不安から彼らの要求について頭では分かるのですが、お金が絡むとこんなにも人は変わるのかと寂しくなり ました。度重なるスタッフとの会合と日本事務局との金額面での折衝を繰り返し、スタッフとどうにか無事に合意に到りました。
 ただ、その後も農場で揃えた備品の数々、例えば高価な車輌や刈払い機、冷蔵庫そしてお皿やスプーンに到るまで、誰に売り払うのか?スタッフに譲るのか? 売った場合はそのお金をどうするのか?また、如何に平等に分けるのか?スタッフだけでなく試験場の人や近所の人々も含めて、弱り果てた獲物に群がるハゲタ カのような状況になりました。均等に分ける事ができないだけに、スタッフ間や近所の人たちの間で備品の奪い合いや窃盗が起き、殴り合いの寸前になることも ありました。
 活動の中止を決めてから1週間余りで、農地や宿舎を試験場に返し、備品も処分し、電話や電気を止めるなど撤退作業を慌しく終えました。ブラスタギでの計 3 週間の出来事が辛かっただけに、「終わり良ければ全て良し」の反対で、最悪の気分でブラスタギを去るところでした。そして、二度とブラスタギには来ないだ ろうと思いました。
 しかし、ブラスタギを離れる最後に試験場場長にお礼の挨拶に伺うと、今後は試験場が主体となって私たちの有機農業プロジェクトを引き継いで下さることを 突 然伝えられました。具体的には、私と3年半近く活動を共にしたスタッフの一人が専属スタッフとして事業の運営に当たり、私たちが今まで使用した圃場で有機 野菜を栽培し続けるそうです。そして、一番の懸念であった消費者への野菜の供給も引き続き行われるとのことでした。
 その後、ブラスタギを去ってから帰国までの1週間、メダンで毎日のように消費者の方々とお会いしました。私の帰国と活動の中止を残念がってくださりまし た が、皆さん形は変われど有機野菜の供給が続くことを喜んでくださりました。そして、私を外国人や単なる有機野菜の供給者としてではなく、最後まで家族の一 員のようにもてなしてくださる消費者の皆さんのおかげでブラスタギでの辛かった3週間も良い勉強になったとプラスに考えられるようになりました。
 本当に密度の濃かった今回の1ヶ月のインドネシア訪問。いつの日にか「旅行者」としてこの地を訪れ、自分が多少なりとも関った有機農業がどのようになっ て いるか見に来るのも悪くないかと思います。


       〈ブラスタギの町の風景〉

活動の今後
屋後浩幸

 ブラスタギを去る前に試験場の場長から突然活動の継続を伝えられました。急な話だったので詳細を直接聞く事が出来ませんでしたが、後日電話などでその活 動 について伺いました。
 農場の運営はブラスタギ農業試験場が行いますが、試験場は国の機関であるので野菜の販売を行う事はできません。形としては試験場が引き続き有機野菜の試 験 栽培を行い、「生きる会」のスタッフだった一人が建前上、販売を行うことになるようです。
 試験場には有機農業に精通した人はいません。その為、上述のスタッフが野菜の栽培面に関しても専任スタッフとして活動の継続に当たります。彼の待遇面に つ いては、野菜販売の利益の中から支払われるようです。活動を畳んだ際でも30軒以上の消費者がおり、月の売上は日本円で5万から6万円ぐらいあり、資金繰 りについての問題はありません。また、試験場には随時インターンシップの学生が10名以上います。当面の専属スタッフは、彼1名であり、その他はそれら学 生の無償の労働で運営に当たるそうです。
 私の帰国前には消費者の方とお会いして、今後は試験場が中心となって野菜の供給が続く事をお伝えしました。その野菜が信用できるか心配される方もおられ ま したが、ほぼ全ての方が今後も野菜を購入すると言って下さりました。農場の車はジョンセンさんに売っており、試験場の車を使って配送を行っているようで す。
 野菜の種については、殆どの品種がブラスタギもしくはメダンで購入する事が出来ます。ただ、レストランを中心に人気のある赤色のサニーレタスと日本のネ ギ は入手が困難です。サニーレタスは自家採取を継続するようです。もしもの場合は、ジャカルタから取り寄せる事が可能です。ネギは自家採取も困難であり、出 来る範囲で日本から送る事になりそうです。
 私がインドネシアを去る前の週(9月の最終週、「生きる会」が活動を止めてから1週間後)には既に野菜の配送を始めたとの連絡を試験場場長から連絡を受 け ました。
 「生きる会」の当初からの目標であった、現地に活動を移譲する事。予期せぬ形での移譲となりましたが、活動が続いている事に嬉しく思います。


〈消費者の農場訪問。3年半活動を行ってきて、ほぼ毎月消費者の方が農場を訪れました。〉

ブラスタギの有機農業
サストラワン カバン

 3年半近くこの活動に参加して有機農業を学びました。当初は野菜の栽培も難しく消費者もおらずこの活動はとても難しいものだと思います。しかし、少しず つ 野菜が有機農法でも収穫でき始め、有機野菜に理解を示してくださる消費者も増えてきました。
 そして今年に入ってからはこの活動がインドネシア人に移譲される事が決まり、農作業の割り振りや配送、会計そして農場から消費者へのニュースレターの作 製 など多くのことを学ぶ事ができました。
 7月には屋後さんが日本に帰国して本格的にインドネシア人だけによる農場運営が始まりました。
 しかし、日本人の監督者抜きでの農場運営はやはり難しく大きな問題がおきました。結果、「生きる会の」の活動自体が中止となり残念でした。
 ただし、最後にはブラスタギ農業試験場が私たちの活動を引き継ぐ形で有機農業が行われる事となりました。個人的に試験場の場長さんからそのプロジェクト に 参加するか打診され、快く引き受けました。試験場の下での仕事となりますが、今後も有機農業を続けられる事はとても嬉しいです。
 屋後さんや戸松さんにとても感謝すると共にブラスタギで有機農業が広まるようにこれからも頑張っていきたいと思います。
 ありがとうございました。

五年間の活動をふりかえって
矢澤佐太郎

はじめに
2006年6月14日にブラスタギ試験場と「アジア農民共に生きる会」の活動について話し合いがもたれた。7月に日本人技術者が帰国し有機農業の実践と普 及は今まで一緒に活動してきたインドネシアスタッフにすべてが委ねられること、「アジア農民共に生きる会」の活動は本年9月に終了するがその後は戸松正氏 が資金的支援を行うこと等が確認された。
その後、彼らによる自立的運営・発展が期待されたが、残念ながら有機農業の実践と普及というブラスタギ試験場での活動のすべてを終了し、インドネシアス タッフも解散することになった。この活動に当初より関り、ブラスタギ農場の活動をみる機会を得たことがある自分なりに「アジア農民共に生きる会」の活動を ふり返ってみたい。

帰農志塾の アジア版として出発
 戸松正氏の海外への情熱と彼の有機農業の実績が絡み合い、エネルギーとなって“アジアの農民の自給・自立・自治に協力するため、直接的にアジアの農民と 関わり、環境に調和した農業協力”を設立の趣旨として「アジア農民共に生きる会」というNGOが設立された。これをもっと平たくいうと、帰農志塾で実践さ れているような有機農業による自立農家の育成を独立採算の自立したモデル農場をアジアに立ち上げ、有機農家の輪をアジアに広げようという大変大きな夢を掲 げたものだった。この夢に賛同する戸松氏の友人と帰農志塾の支援者が会員となって活動が開始された。

トレーニン グセンターに小嶋英嗣氏派遣
2001年6月からスマトラ州ダイリ県山中のビナガ地区に位置する農業トレーニングセンター(Rural Development Action)の協力から始まった。野菜、養鶏、養豚、養魚などを取り込んだ有畜複合農業のモデルファームの建設・運営であった。農業技術者として帰農志 塾の小嶋英嗣氏が派遣された。トレーニングセンター代表のウェスリー氏は日本のアジア学院で研修を受けた、創造性豊かな指導力のある人で小嶋氏と良い協力 関係が築かれ、センターは日本からの資金援助も得てモデルファームとして機能を充実させ、研修生の受け入れも増加していき、地域の中心的農場に成長しつつ あった。 しかし、有畜複合経営で自給自足的な自立性の高い農業を展示・実証できるが、市場から遠く離れた山中に位置する農場では帰農志塾が行っている野 菜を主とした有機農産物の生産と販売を実証するには地理的に難しいことが認識され始めた。トレーニングセンターの活動が軌道に乗り始めたことと有機野菜の 生産・販売を実証するに適当な農地が野菜産地であるブラスタギに見つかり、2002年10月に協力の拠点を移すことになった。
2004年1月に訪れた時の印象は、農場が清潔に整備され、発展途上国の同様な施設を数多く見てきた筆者にとってある感動すら覚えるほどのものだった。事 務所にはここで研修していった人たちの活動が示され、豚舎や鶏舎で家畜が元気に鳴き声をあげ、多種の作物が植えつけられ、飼料木まで導入されていた。食堂 で寄宿している子供たちと一緒に食事をしたが、ご馳走ではないがいかにも農場らしいおいしいものでウェスリー氏の人柄がにじみ出たものだった。

ブラスタギ 農場に屋後浩幸氏派遣
新しい拠点はブラスタギ高原にある国立ブラスタギ果樹試験場内に40アールの圃場を借りて野菜の有機栽培と販売が始まった。ここは人口200万を有する州 都メダンに近い高冷地野菜の産地で温帯野菜の栽培に適し、かつメダンという大消費地を抱え、帰農志塾方式の営農の実証・展示には都合の良い土地であった。 帰農志塾から屋後浩幸氏が派遣され、試験栽培だけでなく販売や消費者との連携にも力が注がれた。農場は孤児院等から推薦された若い人たちが研修生となり屋 後氏と起居を共にし、土作り・野菜栽培から販路の開発まで行われた。まさに何も無いところからの出発であった。筆者が訪れた時に眼にしたのは農具として鍬 と鎌に一輪車、野菜の販売は一般の乗り合いバスに積み込んでの出荷であった。 彼らの活動を目の当たりにして、この活動を支えているのは戸松氏の指導力も さることながら屋後氏の人柄とリーダーシップ、優れた語学力に負うところが大きいと感じた。
主な活動状況は次のとおり。
1.    有機栽培技術の確立
・ 土つくりに重点を置いて、ボカシ肥作成、緑肥栽培、半不耕起栽培の導入
・    開設から一年後にニンジン、キヌザヤエンドウ、レタス等10品目が有機野菜として収穫できるようになった
・    有機物マルチと半不耕起栽培により土壌が肥沃になりミミズも増加した
2.    農民への普及活動
・    野菜価格の下落、生産コストの上昇、高値販売できる有機農産物への期待等から有機農業に対して関心が高い
・    ボカシ肥と半不耕起栽培および有機物マルチについて指導
・    現地NGO主催の農業セミナーへ講師として参加
3.    有機農産物市場の開発
・    提携関係を持っている家庭が約20戸、有機農産物専門店1店舗、日本食レストラン2店まで拡大した
・    有機農業を普及させるためには有機農産物の市場は不可欠だが、有機農産物の市場は広がりつつあるがまだ小さい
4.    研修生の受け入れ
・    共同生活を通して広義に有機農業の大切さを指導
・    2005年までに11人の研修生を受け入れている(この時点で4名が研修中)研修修了者のうち2名が実家で小規模ながら有機農業に取り組んでいる
5.農場の収支
 ・ 2005年当初の農場の支出(農場経費、食費等)は一ヶ月700万ルピー(約9万円)、販売収入は250万ルピー(約3万円)
 ・ 2006年中旬には農場収入が700万ルピー(約9万円)まで向上し、独立採算の道筋が見えてきた

これまで直 面した困難
 途上国で協力活動に取り組んでいると本邦では想定し難い課題や困難に直面する。いくつかをメモすることにより今後の参考にしたい。
1.    滞在ビザの取得
長期滞在するにはKITASと呼ばれる長期ビザが必要になり、さらに販売等経済活動を伴う滞在の場合はIKTAと呼ばれるビザが必要になる。これらを取得 するには高額な手数料と時間と煩わしさが伴う。
NGO活動であるにしてもこの規則にしばられ、警察署に何回も足を運ぶことがあり、場合によっては拘束されるケースも考えられ、外国人滞在者にとって活動 の意義に関係なく精神的に厳しいものである。筆者が2004年に訪問した際にも警察から農場に滞在する理由ついて質問を受けた。
2.    カウンターパート
開発途上国での協力活動では何かを誰々に広めたい、実証したいという目的と同時にその協力活動を一緒に行い、いずれはその人に活動を委ねる相手、すなわち C/Pと呼ばれるカウンターパートが重要である。C/Pは活動を理解し、こちらの考え方や技術を吸収し、活動の現場で起こる諸問題に対して前面に立って対 処する気概が求められる。C/Pは専従職であることが望ましく、役職についている人がC/Pであるとフルタイムで協力活動に取り組んでいる派遣技術者の技 術や考え方がC/Pに移転せず、その技術者が帰国した後の活動が続かないケースになりやすい。ブラスタギではC/Pの位置づけが難しかったようだ。

二人の若者 の功績
 この活動の終了に当たって思うことは帰農志塾の戸松正の情熱の大きさと派遣された二人の若者の活動ぶりである。
前者は氏がサイゴン陥落前のヴェトナムで戦争孤児のための職業訓練校で農業指導に従事していたことと、有機農業が一般に認知される前から真智子夫人と帰農 志塾を開設して頑張ってきたことからも理解できる。
 後者は派遣された小嶋英嗣氏と屋後浩幸氏の活動ぶりである。まさに“協力活動は派遣される人ですべてが決まる”を実証してきたように思う。二人とも現地 語に精通し、共同生活の中で信頼関係を築き活動の輪を広げてきた。
「アジア農民共に生きる会」の解散後もブラスタギの農場の活動の継続を現地から求められたのも屋後氏の人柄によるものだろう。

終わりに
このような海外における農業協力活動の終了時にはその活動の評価がよく問われる。
筆者が関わった政府ベースの技術協力は10年から15年の月日が費やされ多くのベテラン技術者が心血を注いだ活動も評価といわれ、数字で結果を求められる と作文くさい、実体から遊離した説明に陥りやすい。海外での新規の作物や農業技術の導入、そして人つくりにはもっと長いスパンで見守り評価することが重要 であると常々考えている。
 インドネシアのスマトラで蒔かれた有機農業の種がどのように芽をだし成長するか見守っていきたいと思う。


〈メダンのHKPB大学農学部の教授と学生の農場訪問〉

農業トレーニングセンターの活動について

9月の渡航の際にウェスリーさんの農場も訪問しました。現在、ウェスリーさんは農場の代表、農場のあるビナガ村の村長そしてキリスト教教会の仕事を兼ねて 忙しい日々を過ごしています。
以下、農業トレーニングセンター(TC)や今後のインドネシアでの有機農業についての彼の意見をまとめました。

屋後)今までのTCの活動を振り返ってみてどうですか?
ウェスリー)約5年前にTCを開設して、当初から日本から多くの支援を受けています。TCに派遣された小嶋さん。資金援助をして下さったAsia Community Trustの皆さん。 「生きる会」屋後さんや理事の皆さん。そして多大な協力をしてくださっている戸松さん。
皆さんの援助にとても感謝してい ます。
      現在農場には500羽程の鶏と30頭程の豚を中心として、他にはお米、野菜、養魚そして果樹を全て有機栽培で行っています。

屋)農場の運営についてはどうですか?
ウ)昨年、Asia Community Trustからの資金援助はなくなりました。しかし、今年の初めから鶏卵と鶏及び豚の出荷による売上で、農場は自立運営できています。収支はギリギリ黒字 で、自転車操業といった状況です。実際私の給料も研修生並です。(笑)

屋)出荷先はどうですか?
ウ)農場のあるシディカランでは有機農産物の市場はありません。その為、一般の農産物と同じ価格で地元の市場や私の家のあるシアンタールの教会へ出荷して います。メダンへ出荷できれば、有機農産物としてより高価で販売できるのですが農場まで道が舗装されていないので現時点では難しいです。

屋)道路はいつ頃舗装される予定ですか?
ウ)現在、ビナガ村村長の仕事も兼ねておりシディカラン政府に強く要請しています。行政関係者を農場に招待して有機農業の可能性についても説明していま す。幸い、今年中には舗装工事が始まる予定で、年内には完了とのことです。が、ここはインドネシアなので計画通り事が運ぶとは思いませんが。

屋)ビナガ村やシディカランなどでの有機農業の広まりはどうですか?
ウ)活動を始めてから多くの方が見学や研修に来ています。その数は500人を超えています。実際、現在もシディカランの農業高校の学生がインターンシップ として有機農業を学んでいます。ただ、私の知っている限りでは村人や研修を受けた人の中で有機農業を始めた人はいません。以前、TCスタッフだった者が独 立して有機農業を始めましたが市場の確保が出来ず、現在TCに戻ってきて再度スタッフとして働いています。やはり有機農産物の市場がある程度できないと、 有機農業が広まることは難しく思います。ただ、ビナガ村でもボカシ作りを始めたり稲わらマルチを野菜栽培に利用している人がいます。完全なる有機農業は難 しいですが、少しずつ農業技術は広まっているように感じます。

屋)残念ながらブラスタギの農場の閉鎖が決まりました。
ウ)私も本当に残念に思います。小嶋さんの時からブラスタギの農場とは協力関係にありとてもよい関係を築いていました。実際、弟のマントが研修に行ったり ブラスタギからもスタッフが養鶏について勉強しに来るなどしていました。先にも述べましたが、有機農産物の開拓がとても難しくある状況で、ブラスタギ農場 が開拓したメダンでの販路はとても貴重だと思います。屋後さんからのアドバイスがあったように、TCへの道路舗装が完了した後には屋後さんたちが作ったメ ダンの販路を活用させてもらおうと思います。

屋)今後のインドネシアやTCの有機農業についてどう考えていますか?
ウ)ジャカルタを中心としたジャワ島では既に有機農業は確立されつつあります。また、政府の2010年までにインドネシアの農産物の50%以上を有機に変 えようというプロジェクトが現在進行形で行われています。ただ、北スマトラ州やここシディカランはまだ遅れています。TCを訪れる農民や学生の有機農業に 対する関心はとても大きいです。時間はかかるでしょうけど、この地でも少しずつ有機農業が広まっていくと確信しています。

屋)いろいろありがとうございました。
ウ)こちらこそありがとうございました。


    〈ウェスリー氏と屋後とマント氏〉

私と有機農業
ジョンセン スンビリン
 
 始めまして。私は、現在メダンにあるメソジスト教会で牧師をしているジョンセン スンビリンです。私は2001年、栃木にあるアジア学院で有機農業を学 び ました。その際、帰農志塾に1週間ほど滞在して戸松さんやヒロさん(屋後)と交流しました。彼らが私の出身地である北スマトラ州で有機農業の普及活動を 行っていること知り、以後インドネシアに戻ってから付き合い始めました。
 日本で有機農業を学び、多くの有機農家を訪問したことで私の有機農業に対する関心は高まり、北スマトラ州で有機農業の普及を行いたいと思うようになりま し た。メソジスト教会には同じようにアジア学院で有機農業を学んだロスミン氏もおり、彼と共に教会内のプロジェクトとして有機農場を作る計画を立ち上げまし た。しかし、残念ながら教会内で反対に合い中止になりました。
現在、私は教会の忙しい仕事の合間を縫って、個人的に有機農業の普及活動を始めました。メダン近郊の4つの村で農民に有機養豚を指導しています。各村の農 民をグループ化して現在80名ほどの農民が、この活動に参加しています。
 具体的には、農民につがいの豚を無償提供して産まれた子豚を返してもらっています。養豚だけではなく、飼料となるトウモロコシや大豆をなるべく農民達が 自 ら栽培するよう指導しています。その栽培には養豚によって出てくる豚糞を堆肥やボカシ肥料にして活用しています。現在、計画段階ですが飼料の完全自給化が 可能となった場合、購入飼料と比較して農民の飼料代は60%ぐらいに抑える事ができると思います。農業資材が年々高騰しているインドネシアの現状を考慮す ると、農民への利点はかなり大きいです。農民にとって本当に豊かな生活とは、日本の有機農業の理念である農民の自給自足だと思います。そして、インドネシ アの農民もその大切さをいつか体感してほしいと思います。
 実際、インドネシアの農民も日本の農民と同じく換金性の高い作物のみを栽培しており、農民自身の食物自給率は低いのが現状です。養豚の自家飼料化が一段 落 した後は、農民への自給作物の栽培推奨や養鶏の導入などを考えています。
 幸い北スマトラ州では幾つかの農家やNGO関係者が有機農業に取り組み始めました。同じくアジア学院卒でRDAのウェスリーさん。「生きる会」の農場が あったブラスタギ試験場。北スマトラ州在住のアジア学院卒業生。メダンや北スマトラ州のNGO関係者。大学関係者やメダンの消費者。数年先には、多くの人 や団体を巻き込んでの有機農業を核としたネットワークの構築を考えています。
 今は教会の仕事が忙しく有機農業に余り時間が取れませんが、定年を迎える10年後には本格的に自分で畑を開き、有機農業を実証したいと考えています。
 「生きる会」の活動は終わりましたが、一人の友人として戸松さんやヒロさんと夢を共有できればと思います。
 ありがとうございました。

インドネシア有機農業界にYAGOあり!?
和田政幸

※    筆者は2005年3月と2006年9月にインドネシアにおける有機農業を研究するため農場を訪問。1〜2週間滞在し、研修生へのインタビューや近隣の市場 の調査を行なった。

 はじめてブラスタギの農場を訪れたのは2005年3月、大学の後輩と共に、インドネシアで有機農業普及に取り組む日本人の活動を見るためだった。ほんの 2 週間程度の滞在だったが、農作業はもとより、消費者との交流や研修生への技術講習に付き添わせていただき、夜は少ない水を皆で分け合いMandi(水浴 び)をしたことが印象深い。
 なにより、インドネシアを方々巡った中で、AFCoLの野菜が一番美味しかった。インドネシアの野菜は一般的に美味しくない。インドネシア的な油ギトギ ト、味の素ドッサドサの調理方法が私に合わないという部分も大きいが、市場やスーパーで手に入る野菜は、収穫後何日間も店先で炎天下に晒されていたりして 鮮度も味も良くない。さらに最近では有機野菜や無農薬野菜がスーパーなどに並ぶようになったが、良いのは見栄えや価格だけで、肝心要の味が良い野菜にはな かなか出会えない。その点AFCoLの野菜は歯ざわりがよく、ほんのりと甘く、身体に自然と入っていく。今でも舌に残るほど鮮烈な味だった。
当時農場で働いていた研修生たちも口を揃えて「外食するよりも農場でご飯を食べたい。」と語っており、メダンに住む消費者の方々も「野菜嫌いな子供たちが ここの野菜なら喜んで食べる。」と驚いていた。そんな野菜が食べられなくなるのは、正直残念な気もする。そしてそれは私だけではないだろう。
 もう一点印象深いのは、2005年9月に再びジャワ島・スマトラ島を訪れた際「AFCoL」、「YAGO」の名前が有機農業にかかわる団体の間で認知さ れ 始めていたことである。すでに「TEIKEI(提携)」や「BOKASHI(ボカシ)」がインドネシア語として使用されているように、これからは 「YAGO」も有機農業家の間で共通の言葉になるのかもしれない。…というのは私の妄想にしても、それ以前には見られなかった有機農業者間のネットワーク が地域を越え、島を越えて新たに生まれ始めているように感じられた。
 現在インドネシアで有機農業や環境保全に取り組む団体は堰を切ったように増え始めている。その規模は大小様々だが、「Organik」で「環境に優し い」 というのはインドネシアの地域開発の中で一種の流行になりつつある。さらにその周辺で日本企業のCSRやNGOの環境保全運動は増え続けている。長い年月 を費やし、地域を越える広がりを見せたAFCoLの活動は、まさに先駆的であり、その貴重なケーススタディになっていくはずである。
 戸松様、関係者の皆様方、そして屋後さん、心よりお疲れ様でした。この5年間皆様が培ってきたものが、今後芽を出し、花を咲かせ、その種を周りに広め、 イ ンドネシアに根付いていくことを衷心より祈っております。

 
  〈東農大名物の大根踊りをスタッフと共に〉

お礼の言葉
屋後浩幸

 言い古された言葉ですが、約3年半のインドネシアでの活動を振り返ると、本当にあっという間でした。
ブラスタギ派遣初期から最後まで本当に色々な事がありました。ただ、今回のブラスタギで有機農業を普及させるというプロジェクトは、実は「屋後浩幸」を成 長させる為のプロジェクトであったのかもしれないと感じます。まだまだ至らない自分ですが、3年半前に日本を発つ前の自分と今の自分は性格、経験、考え 方、物事の捉え方、自分に対する自信など全てが変わり、自分の成長を体感しています。
 ブラスタギ渡航時はインドネシア語も農業経験も乏しい、私をサポートして下さった前任者の小嶋さん。日本で事務的な仕事を手伝ってくれた帰農志塾の皆さ ん。電話でそして日本帰国時に応援してくださった真智子さん。メールで、また帰国した際には親身になっていつも私を心配してくださり相談に乗ってくださっ た「生きる会」の理事の皆様。この活動の趣旨に共感してくださり活動資金の援助をして下さった会員の皆様と「社団法人 国際農林業協力協会」の皆様。さら に、私のわがままに愚痴りながらも最大限の協力をしてくれた両親と兄弟。そして、未熟者であった私を最後まで信頼して多くの学びの機会を与えてくださった 戸松さん。本当に多くの皆様のおかげで、3年半インドネシアで得がたい経験を得て、特に大きな病気に罹る事や事故にあう事もなく無事に任務を終えることが でき、感謝の気持ちで一杯です。
皆様からのご援助やご支援の数々に対して私がやってきた事や恩返しできたものは僅かでしかありません。直接皆様に恩返しができない無礼をお詫びして、皆様 から受け取った以上のご恩を、これからの自分の人生で他の人や日本そして世界のために返していきたいと思います。
 皆様ありがとうございました。
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