2007年10月24日

告知/ブログの一時閉鎖のお知らせ! 《追加版》

皆さんにお知らせ

「力なき正義は無能なり」のブログを今日で閉鎖します。

ご存知のように現在私は「我が父 芦原英幸」と「大山倍達の遺言」の執筆に多忙な日々を送っております。このままではブログの定期的更新は全く覚束ない状況です。かといって私の主義は、ブログを更新せずにただ放っておくのを潔しとしません。放置しておくならば、一時的な措置であっても閉鎖するべきだと思いました。

執筆が一段落し、現在進行中の書籍が全国の書店に並んだ頃、またその次に控えている私と塚本の「大仕事」が済んだのち、再びブログを再開させることがあたるかもしれません。また主宰者を代えて再会することも考えています。その場合は再開時期が早くなることも有り得ます。
私とパートナーの塚本は物書きです。本を書くことを生業にしている人間です。ですから何よりも私たちに求められている責務はルポルタージュにせよドキュメンタリーにせよ最高の「作品」の執筆でなければなりません。
また、私たちにはいつまでも空手・格闘技の世界に安住するつもりは微塵もありません。空手・格闘技の世界は私にとって「故郷」ではありますが、あまりにマイナーで偏見の強い、そして内部で常に足の引っ張り合いをする古い体質の「村社会」です。
私たちは現在、空手・格闘技界には何ひとつ拘泥していません。私たちは一介の物書きふぜいに過ぎませんが、今後はジャンルに関係なくジャーナリストとして、またルポルタージュ作家として一歩でも高く階段を登っていきたいと心に誓い、汗をながしていくつもりです。

ところで、もともと私たちはNetの住人でもなく、決して情報屋でもなく、公的な、または商業的な意味でも「ペン」の世界で生きる人間です。それを犠牲にしてまで他の活動をするのは本来邪道であるのはいうまでもなく、ともすれば自分たちの「道」を間違い、目標を見失ってはいけないと痛切に感じていました。
小島一志という人間も、塚本佳子という人間も「物書き」が本分であって、それ以外は付録以外のなにものでもありません。私たちへの評価も全て著書によって為されてこそです。ブログのコラムのみが話題に上がったり評価されるのも考えてみれば極めて正しい在り方ではありません。
いま1度、私たちは「原点」に帰って、物書きとして最高の「作品」、1人でも多くの人に手にとってもらえる「商品」を作り上げることに全精力を傾ける覚悟です。

いままで毎日、4000人近いファンによって支えられてきたこのブログを閉鎖するのは、ある意味、とても大きな決意と覚悟がいりました。しかし、今後は書店に並ぶ物書きとしての小島と塚本の「作品」を通して、何らかの心の交流が出来ることを望みます。
いままでの1年半、どうもありがとうございます。どうか今後とも宜しくお願いします。私たちの汗の結晶である「作品」の中でお会いしましょう。
ちなみに、今回のブログの閉鎖はいうまでもなく小島と塚本の相談の結果であり、外部からの圧力や妨害は一切ありません。もし、そんな事が背景にあるならば私は一歩も退かず正面からも裏庭からもあらゆる手段を使って闘います。この点だけはご了承下さい。


小島一志

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2007年10月20日

投稿/とあるカリー屋さんの戯言(4) タンドール土釜との死闘(後編)〜一撃会・THE ROCK-MAN

とあるカリー屋さんの戯言(4)
タンドール土釜との死闘(後編)
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●大山総裁降臨

まさに、身も心も打ちひしがれていた。その時だ!
「き…」
え? どこからか、何かが聞こえた。
「きみ…」
確かに聞こえる。姿は見えないが、どこかで聞き覚えのあるような「誰か」の声が…。
「きみィ」
重低音で響く野太い声に、思わず「だ、誰?」反射的にこう聞き返してしまった。そして、声の主を知った私は即座に後悔し、立ち竦んだ。「ま、まさか、その声は!」
その野太い威厳のあるお声の持ち主は世界広しと言えど只一人しかいません。その「お声」の主は半ば呆れたように言った。
「誰? じゃないよぉ! きみィ〜何様のつもりだぁ〜。バカモノ!」
「お声」の主を特定した私は、その場ですぐに立ち上がり、慌てて震えた拳を握り締め直立不動になった。
「お、お、大、山、総、裁!!」
大山総裁の突然のご出現に驚愕して、失礼にも「誰?」と聞き返したことを後悔しながら、畏縮し下を向いて私は固まった。そんな私の態度を意に返さず、大山総裁は話を続けた。
「まったく情けないんだなぁ〜きみは。な〜にやってんだあー、稽古してないんだなあ。きさまぁー! バカもん」
「オ、オ、オ…押忍、失礼致しました」と言いかけたが、私は大山総裁の威圧感に完全に畏縮してしまい、口をパクパクさせるだけで全く声にならなかった。大山総裁は落ち着いた様子で、あの「野太いお声」でこう仰られた。
「極真空手というのはねェ、地上最強なんだよ、誰が何と言おうが、これはあだしの信念だぁ。極真空手が世界に発展するまではねえ、そりゃ〜もういろいろあったよ、本当に大変だったんだぁ〜。今は総裁だの、ゴッドハンドだのと呼ばれているが、あだしだって生身の人間です。大山倍達は神様ではない! そりゃ〜言葉に出来ないような苦労もしたよ」
お姿は見えないが総裁の感慨深い表情が脳裏に浮かんだ。
「キミは極真空手家のはしくれ者だというそうじゃないかぁ〜。ならば、あだしの弟子だ。弟子の前でこんな事は言いたくはないが、あだしはねェ下げたくもない頭もずいぶんと下げたよ。極真空手というのはね、そういうあだしの苦労と血と汗と涙の結晶なんだよ。だからこそ極真は未来永却不滅でなければいけないのよ」
またしても総裁のお姿は見えないが、お顔を紅潮され、身振り手振りを加えながら躍動感たっぷりにお話されるシーンが再び脳裏に浮かんだ。さらに大山総裁は、
「それをなんだねきみは。地上最強のカリーを目指すと言いながら、その様は。さっきから見ていたが、も〜う見ちゃいられないよ」
今度は眉間にしわを寄せ、口を真一文字にした総裁の険しい表情が浮かんできて、さらに私は畏縮した。
「だいたいねェ大げさなんだよ〜きみィー! 怪物だとか、蛇の化身だとか、たんどるだかナンどるだか知らないけど、まったくきみはたるんどるだよ〜。だめじゃないのよ〜、そんなものただの『どろ』のかたまりじゃないかぁ〜。ものを言わぬ相手に、な〜にやってんだぁ! あだしは呆れてものが言えないよ〜」
「だいたいねェ、地上最強なんて軽軽しくいうものじゃないのよ〜石の上にも十年と言うが、キミはまだはじめたばっかりじゃないかぁ〜。千日の修行を持って初心とし、万日をもって極と成するんだよ、たんどるでもナンどるでもいいから一万回やりなさい。何でもそうだが、物と向き合う時にはねェ謙虚な姿勢が大切 なんです。頭は低く、目は高く、口慎んで、心広く、考を原点として、他を益する。それが極真精神です」
少し間を置いてから、さらにこう仰られた。
「でもね、お客様のためにとか、誠心誠意頑張ってますとか、そんなものは建前だよ。奇麗事をグダグダ言うなら今すぐやめちまえー!! 君のやっていることは商売じゃないかぁ〜。商売である以上はお金をうんと稼ぎなさい。それが力なんだよ〜。でもねェ、あまり行き過ぎる誇大広告はだめだ。男はけんかに強くならなくちゃいけない。だ〜から極真空手の本質は『組手』だよォ〜、キミの場合その組手にあたるのが『味』だ! 本質を忘れず精進せーい! わーかった!?」
眉間にしわを寄せ、口を真一文字に閉じた総裁の険しい表情がやや、和らいだように見えた。
私は只々畏縮し、圧倒され、その場に佇んでいた。でも、一言だけ大山総裁にお礼を言いました。「押忍」と。

●続行! 極真空手vs印度の怪物

そうだ。これは「けんか」組手だ。始まったら最後までやり通さなくちゃいけない。本質を見極め、とことんまでやり通して初めて本物の「味」が生まれるのだ。私は気を取り戻し、心の中で叫んだ。「構えて、続行!」私は再び釜穴を覗いてみた。
「あリャーこれはひどい…」
なんと、釜壁がペンキを塗ったように黒一色に染まっているではないか! 私は軍手を2重にはめて、釜穴に手を入れ釜壁を触ってみた。
《ヌルッ》…
「おや? すべるぞ!」
2重の軍手にへばり付いた黒い物質をよくみると、それはまさに黒ペンキのようにヌルヌルとした黒いススだった。
「ナンが釜壁にくっ付かないわけだ〜」
黒いススが釜壁を覆い被さり、ナンがくっ付こうとするのをすべり落としていたのだ。私はすぐに釜壁をタオルで拭き、壁にへばり付いた黒いススを拭い落とした。1枚のナンを広げ、もう一度深呼吸して気合を入れ直した。貫手一線!
「どりゃー!」
《ピタ》
今度はくっ付いた。だが、すぐにナンはペラッと釜壁から離れて《ヒラヒラ》とまた釜底に向かって落ちようとしている。私はその瞬間を見逃さなかった。
「させるか!」
私は瞬時にナン槍を取り出し、《ヒラヒラ》と釜底に落ちようとしているナンの上部分に、先が直角に伸びたナン槍の形状を利用して、槍を刺さず側面を押し付けた。すかさずナンべらを取り出し、ナンの下の部分を釜壁に向かって押さえつけた。
《ジュッー!!》
バンダナ越しにはみ出した髪の毛が着火しそうな勢いで焦げ、煙が噴出している。腕をぐるぐるに巻いたタオルが溶け、その隙間から熱風が入り込み、腕の地肌を焼いた。だが離すものか!
「あと数秒の我慢だー!」
ここで手を離すわけにはいかない。何せ命よりも大切なお客様が待っているのだ!
「あ、あつ──ぅ!」
思わず声が漏れた。
「ラスト10秒──!!」
必死の形相で押さえつけていたのは約15秒。ナンは焼けた。 続きを読む

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とあるカリー屋さんの戯言(3)タンドール土釜との死闘(中編)〜THE ROCK-MAN

「とあるカリー屋さんの戯言」
タンドール土釜との死闘!(中編)



●おそるべしインドの超怪物!

《ブボワッーー》という空気を裂くような火音ともに青白い炎の塊がとぐろを巻いて私の顔面に直進してきた。
「うわああああ! し、死ぬ〜!」
私は目を点にして、心の中で悲鳴をあげるや否や、瞬時に顔面をガードし、思いっきり後方にのけぞった。
《ブホッーーーー》
炎はまだ燃えている。それどころか、炎が釜穴の形状を模り、円柱型に添って渦を巻いて竜巻のように、上に向かって伸びているではないか。竜巻は天井を突き破ってやろうと言わんばかりに雲を作ってさらに上へ伸びていった
「やめろー! やめてくで〜!!」
火事にならないかと心配になったが、フードに設置された2台の大型換気扇が、フルパワーで作動し「高熱竜巻雲」の『野望』を飲み込んでくれた。さすが、イザッ!というときに頼りになる大型換気扇だ。
「ハぁ〜助かった」
一瞬、肝を冷やしたが、幸いにも火事は免れた、だが、とてもじゃないけどこの状況に安心はできない。それに、もしもあの高熱竜巻雲が顔面に直撃していたら、大怪我どころじゃすまなかっただろう。私は本当に再起不能に陥っていたかもしれないのだ。
私は恐る恐る釜穴ごしに中を覗いてみた。炎の塊を思い出して、ぞっとした。まだ、体のどこかが震えている。
それにしても釜の中で一体何が起こったのか!?
「はっ! もしや…」私はすぐに思い当たる節があった。
「あの時だ!」5枚目のナンをはがそうとして、火傷をした時、熱さで思わず釜蓋を閉じてしまっていたのだ。そういえば、釜を厨房に設置する際、業者の方から、「釜は火を点してから、釜蓋を『半開き』にして、最適な温度になるまで約2時間半お待ちください」と聞いていた。さらには、「火を点してから釜蓋を全部閉じてしまうのは危険ですよ」という忠告も聞いていたような気がしないでもない。
しかしである。釜蓋を閉じたぐらいで、これほどまでに凄い大爆発が起こりうるのだろうか?しばしの沈黙のあと、私はもう一度、「あの時」の状況に思いをめぐらした。
「はあ! そうか、そうだったのか…」
私は自分なりに、ない知恵を振り絞って推理を施してみた。度重なるナンの失敗で、焼いたナンが釜の中に異物として、居残り、たまったナンの残骸から、ガスが発生し、釜蓋を空けた瞬間、釜の中へ大量の空気が入り込み、引火! その結果、あの大爆発を引き起こしたのだ。
そうに違いない。
サイエンスとは無縁のこの私でも、このぐらいの理解力はある。ひょっとしたら、これが世に言う「バックドラフト現象」なのか!? うわわわ、怖ええ! おそるべしタンドール土釜! こいつは煮ても焼いても食えない化け物だ!
しかし…自己流の推理に感心している暇などあるはずもなく、早くも私の焦りは最高潮に達していた。
「やはり、俺は間違っていたのだろうか? 日本人の俺には無理なのか? タンドール土釜はインド人にしか扱えないという『迷信』は、真実だったのか…」
それとも何か?
「タンドール土釜、こいつ自身が異国人の俺に、『我々インド』の領域に踏み込ませないという、古代インドの呪いにでも似た不気味な意志を持ってでもいるのか?」
いつしか、タンドール土釜の奥底に潜んでいたあの不気味で青透明な「高熱竜巻雲」が、古代インドの蛇の化身のように思えてきた。
かといって、いつまでも不安の気持に浸ってはいられない。お客様は美味しい本場のナンを待ち焦がれているのだ! 何とかしよう、何とかしなければならないのだ。私は絶体絶命のピンチに立たされた。
しかし、私も極真空手家のはしくれだ! 試合では幾度となく絶体絶命のピンチを乗り越えてきた男である。
再び挑戦開始!
とはいうものの、焦る気持が募る中、再び恐る恐る釜の中を覗いてみた。
「うわー、ひどいなコリャ〜!」
ナンの残骸がまだ釜壁に張り付いたままになっている。5枚ナンを焼いたので、もうどこにも「足の踏み場がない」、いや、この場合は、「ナンの踏み場がない」と言うべきか。ナンベラで残骸をつっつくとパラパラと案外簡単に残骸は崩れ落ちた。私は急いで残骸を釜底に落とし、もう1枚のナンのスペースを作った。
「ふゥ〜」ため息が自然と出る。極真空手家のはしくれの私だが、弱気の虫が脳裏に食いついて離れなくなってきた。まだまだ大爆発のショックが醒めない。半ば放心状態のまま再び6枚目のナンを手にした。
「よいしょ!」私は、再び釜の中に「貫手」を入れた。
「ん? あれ?」
今度も、5枚目のナンの時と同じように、またしてもナンの下の部分がはがれている。そればかりか、ナンの上の部分の真中辺りから、釜壁とナンの間に、ごくわずかな 隙間が生じているではないか。
「今度こそ取れるかもしれない、いや、ぜったい取ってやる!」
またしても極真空手家のはしくれの勇気が湧いてきた。ナン槍をナンの上部分に突き刺し、ナンベらを釜壁とナンのわずかな隙間にそっと差込んだ。「いける!…かもしれない」
私は慎重に、ナンべらをさらに奥まであてがい、張り付いたナンを少しずつはがしていった。慌ててもダメだが、ゆっくりやりすぎると、また焦げてしまうので、そこはより一層、ナンをはがす事に集中した。9割方はがれたところでで、突き刺したナン槍を持ち上げ一気に吊上げた。
「とったぁ〜! 成功だ」
やっと1枚焼けた。

●形勢逆転

1枚焼けたと言ってもまだまだ安心してはいられない。最初の注文は、まだ4枚残っているし、この「怪物釜」を相手にてんやわんややっている間に、ナンの注文が次から次へと殺到してきていた。
だが、とにかく1枚焼けた。まずは、最初の注文であるナンをあと4枚を焼いてしまわねば! 私はすぐさま2枚目のナンを取り出し、再度釜の中に「貫手」を入れた。
「どりゃー、セイヤ〜!」
《ピタ》
さっきと同じように、ナンの下の部分が釜壁にくっつかず、上の部分の真中辺りから僅かな隙間が生じていた。
「よーし、これなら取れるぞ!」
《パリパリ》今度もまた、2枚目はきれいに釜壁からナンがはがれ、難なく吊上げる事が出来た。この調子で、3枚目、4枚目も無事にクリアすることが出来た。
「ふゥ〜」とりあえず、最初の5枚を完遂出来た。やっと一難去った! 今度はため息ではなく安堵の息がこぼれた。それにしても、さっきとはうって変わってナンが釜壁からはがれやすくなっているのはどうしてだろう?
いまいち腑に落ちなかったが、まだまだナンのオーダーが残っている、余計な事を考えている暇はない。それからも、1枚、また1枚とクリアしていった。大分気持が楽になってきた。極真空手家のはしくれの立ち直りは早い。
「この分なら何枚でもいけるぞ、オーダーよ! どんとこい!」
さっきまでの、不安を忘れたかのように、私は勝ち誇った気持ちに酔っていた。調子に乗って、今度は連続焼きを試してみたくなった。連続焼きとは、1枚づつ焼いては釜穴から吊上げるのではなく、あらかじめナンを数枚広げておき、先ず1枚を貼り付け、すぐさま2枚目を貼り付ける、続いて3枚、4枚と貼っていき、焼けたナンから順に釜穴から吊上げていくと言う技法である。
これはもの凄い集中力とスピードが要求される。かなり高度な技だ。これが出来れば、1枚ずつナンを焼いていくよりも時間が大幅に短縮出来て、うんと効率が上がる。
先ずは連続2枚焼きから試してみた。
「どりゃー、セイ!」
《ピタ》《ピタ》《パリパリ》…。
多少ぎこちないが、なんとか成功できた。
「やったー! ならばこれもできるかな?」
3枚連続焼きにも挑戦すると、これも、無事に成功した。
「やれば出来るじゃないか! よ〜し! 今度は秘技連続2枚焼きだ!」
「どうだ! 連続3枚焼きだ!」
段々、私は調子に乗ってきた。好調のリズムに乗って、ナンを焼きまくった。こうなると、すべてが好転し、テンションが上がってきた。さきほどの「悪夢」など、すっかり忘れていた。
形勢逆転!
私は勝利感に酔いしれた。
「勝った! 本戦終了間際の奇跡の逆転、KO勝ちだ!」
そう信じて疑わなかった。いや、そうであって欲しかった。
しかし…私は再び「悪夢」の世界に引きずり込まれることになるのだ。だが、その時はこれから襲い掛かってくる本当の「タンドール土釜地獄」を知らずに、とあるカリー屋さんは、たった一時の歓喜に酔いしれていったのです…。 続きを読む

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とあるカリー屋さんの戯言(2)タンドール土釜との死闘(前編)〜THE ROCK-MAN

「とあるカリー屋さんの戯言」
タンドール土釜との死闘(前編)


●土釜

「キミィ やれるかねぇ、オニオン潰しだよォ〜」
「押忍!」…

天国の大山総裁からの問いかけに、そうは答えたものの…「オニオンの日」の朝はつらい。夏場は特にだ。
いつものように作業に入る。玉ねぎの皮をむいて千切り、千切りにした玉ねぎを寸胴一杯に埋める。
そして、叩く、叩きつづけるのです。1時間、2時間……う〜む。長時間のオニオン潰しはあまりにも地味な作業である。地味だ、地味すぎる! なんせ、8時間ぶっ通しで叩き続けなければいけないのだから。
これ以上オニオン潰しについての話題を膨らますのは正直きつい。
涙が出るし、悲しくなるし、つらくなるし…それは、ともかく、夏場の厨房はかなり暑いのです。クーラーを最大限にぶっ放しても、もの凄い熱気、まるでサウナそのものです。この暑さの元凶はといえば狭い厨房の中にインド古来の土釜があるからです。

●インドの超魔術か!? 印度拳法「貫手技」

私のお店の厨房には「土釜」がある。
単に土釜と言えど、それはそれは特別製だ。土釜の中身は特殊な粘土で作られており、竪穴式のひょうたんのような形をしています。主に肉や魚、海老などを専用の串に刺して、上から竪穴の中に差し込み、焼く。
もちろんナンもこの土釜で焼く。ナンは生地を広げて手のひらに載せ、竪穴のなかに広げたナンを土釜の側面に貼り付ける。貼り付けたナンは大体約15〜30秒ぐらいでこんがりと焼きあがる。そう、この土釜こそ、俗にインド料理業界で言う「タンドール釜」だ。
タンドール釜は竪穴式のため、ピザ屋さんなどでよく見かける横穴式の石釜などに比べて使用法の難易度がとんでもなく高い。土は湿気も含みやすいのでメンテナンスなども含め、何かと面倒くさいのだ。そのため特に日本人が経営するカリー屋さんの間では、このタンドール釜を扱うのを避ける傾向がある。日本人経営者の中には「タンドール釜は原始的過ぎて必要ない」という声も少なくない。
しかし、よくインド料理店で見かけるように、耐熱ガラス越しにインド人コックがタンドール釜に向かって、広げたナン生地を、次から次へと貼り付けていく姿を見たことがある人も多いはずだ。片っ端から、空手技の「貫手」のように素手でナンを釜の中に貼り付け、焼きあがったナンを専用のスティックに引っ掛け、素早くタンドール釜から吊上げる。
一見、簡単そうに見えるが、あれは実は、非常に困難な「技」なのだ。なにせ土釜の中は400℃を超える、通常ナンをオーブンで焼くと約10分から15分はかかるがそれをわずか数秒間で焼き上げてしまうのだから。その熱さを窺い知れるだろう。もしも人間の手が数秒間土釜の中に突っ込んだままにしておくと大やけどは必死だ。
一般の人々から見れば、インド料理店での何気ない風景に過ぎないかもしれないが、ナンをタンドール釜で焼くという一見、単調そうに見えるその「技」は、まさに「神業」以外のなにものでもない。
さすがは幾千年もの歴史を誇るインド! その「神業」は、膨大な歴史のなかで積み上げられた「魔術」といってもいいのかもしれない。

●極真空手、タンドール釜への挑戦!

話を私のお店のタンドール釜に戻しましょう。
2003年に新装オープンする際、私は新しい厨房にタンドール釜を設置しようかしまいか、悩んでいた。日本人で、このタンドール釜の使い手は全国のカリー屋さんを探してもなかなかいないはずだ。県内の日本人カリー店経営者も、「そんなものメンテナンスが面倒だし邪魔なだけで必要ないよ」という声がほとんどで、「タンドール釜不要論」が完全な主流派だ。
「あれはインド人にしか出来ない」
「インド人は特殊で皮膚が分厚いから400℃の熱風にも絶えられる。皮膚の薄い日本人には真似は出来ない」
「悪い事は言わんから、やめておけ」
信じられない事に、ほとんどの日本人経営者は、「タンドール釜不要論」どころか、「日本人タンドール釜使用不可能論」を本気で信じているのだ。
私は率直に思った。
俺も極真空手家のはしくれだ! インド人に簡単に出来て、日本人に絶対出来ないなんて有り得ない! 「インド人の手は遺伝的に皮膚が400℃の熱風にも絶えられる構造に出来ている」なんて、そんなわきゃ〜ないやろが! あれは紛れもなく、歴史が生んだ完成された「技術」であり、そんな迷信はありえない。下手すると人種差別にも繋がりかねないような、ばかげた言い分じゃ!
頭ではこのように理解している一方で、「あの芸当が本当に、この俺にも出来るのだろうか?」と不安が私の脳裏に重くのしかかってきた。
え〜い、悩んでも仕方がない。物は試しだ!
しつこいようですが、私とて極真空手家のはしくれだ。地上最強のカリー屋さんを目指すのだ。タンドール釜なんて使いこなせてあたりまえなんじゃ。たかだか400℃ごときにびびってどうする!
というわけで、結局私はタンドール釜を買いました。意外と高額でした。
値段はともかくとして、タンドール釜初挑戦は、「悪夢のぶっつけ本番」からはじまった…。
購入したタンドール釜は、数日で届くことになっていましたが、なんと業者との手違いで、届いたのは新装開店オープンの前日になってしまったのだ。気合で腹をくくったのは良いが、釜の使用法についての情報は極めて乏しかった。販売元の業者に聞いても「うちは釜を作っているだけで、使い方まではどうも、わかりません…」という答えが返ってきた。
そりゃ〜そうだわい、タンドール釜を使用しているカリー店は全国にもそれほどあるわけないし、インド人コックがわざわざ同業者の人間に「秘伝」を教えるわけがない。当惑した私は東京や大阪のインド料理店にも使用法のご教授をお願いしたが、インド人の結束は鉄のように固い。まるで私が所属する「秘密結社・一撃倶楽部」のようだ。
誰も彼もが「日本人には教えられない」と紋切り型の答えを返してきた。最低限分かっている事といえば、釜は火を点してから約2時間半、釜蓋を半開きにして最適な温度になるまで待たなければならない…という事だけだった。
といっても最新型のオーブンのように温度の調節も出来ないし、釜穴の表面に手をかざしても、それが最適な温度なのかどうなのかも全然分からない。
私は焦った。緊急事態だ。
「一撃倶楽部のために直ぐ駆けつけねば!」ではなくて、「やばい…どうしよう…」という弱気の虫が脳裏を掠めた。ところがである。不思議なもので、人間究極まで追い込まれると、余計な不安や、焦燥感は消え冷静になるものだ。否、それは極真空手修行の賜物か?
もうこうなったら、何もかもぶっつけ本番でやらなければならない。「俺は極真空手家のはしくれだ! 何とかなる、何とかしよう」と腹をくくりながらも、たびたび襲ってくる弱きの虫を強引に打ち払うことだけで精一杯だった。 続きを読む

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投稿/とあるカリー屋さんの戯言(1)〜一撃会・THE ROCK-MAN

とあるカリー屋さんの戯言

私、「地上最強のカリー」を目指します!

●カリーとカレーは別物です

カリー作りに秘伝はない。あるとするなら、日々修練! 日々研鑚あるのみの地味な作業…、これにつきるのです!
私は言いたい。
本当においしいものは、つらく厳しい日々の研鑚によって初めて作れるのだと。
私はカリー職人、カリー屋さんである。「カリー」と「カレー」を混同している人も多いようだが、私は日本式のカレーと比較されるのは好きではない。なぜなら「カリー」と「カレー」は別物だと考えているからだ。
今では「グルメブーム」と称して、ねこもしゃくしも、コギャルもおぎゃるも〜誰でも「グルメ通」を気取ることができる。親の脛をかじって、ニセブランド物に身を飾り、鼻にぬけるような話し方の輩に、「あたしドロドロ派!」「うちらシャバシャバ派!」などと、言われたくはない…なので、今後も私は「カリー」という言葉にこだわっていく。ここでも「カリー」と明記する。

●オニオンの日

カリー作りに出会ってはや18年…。1989年、高校入学と同時に極真会館に入門したので、ちょうど「カリー歴」と「極真空手歴」は同じになる。
最初は、もともとカリー職人だった叔父貴に借り出されアルバイトとして雇われた。それも決まって「オニオンの日」ばかり…。叔父貴からカリー作りの手ほどきを受けたことは一度もなく、私が任された主な仕事はオニオンをペースト状になるまでたたき続ける作業のみ。
カリー作りにはオニオンベースが欠かせない。大量のオニオンベースを作る作業は毎日おこなうのではなく、当時で大体週に2回から3回が平均だった。もちろん、素手で叩くのではなくて、それ専用の大きな棒を使って叩く。
この作業は、極真空手で言うところの「基本稽古」に相当するだろう。たかがオニオンと言えど、これがなにげにバカに出来ない。つらいつらい戦いなのです。

●オニオン潰しと極真空手

ダンボール箱につまった大量の玉ねぎを取り出して、1つひとつ皮を剥き千切りにする。千切りにしたオニオンを巨大な寸胴に一杯になるまで入れる。これがオニオンベース作りの最初の作業だ。これも意外とバカには出来ない。
なぜならオニオンが目を刺激するからだ。1つや2つならともかく、数百個の硫化アリルがようしゃなく私の目を襲うのだ。これはきつい…。
寸胴が全部オニオンで埋まったら、そこからが本当の勝負だ。
ガスをフル回転させて、一気にオニオンを叩く、巨大な寸胴一杯分のオニオンは強敵だ。なかなか潰れてくれはしない。最初は全く動いてはくれないが、30-40分ほどひたすら叩いていくうちに、わずかに動く…。だが、表面はわずかに動くがその下はまだ微動だにしない。
焦がすわけにはいかないし、投げ出したらそれこそ、その日の日当はパーになる。私も極真空手家のはしくれだ! 小指と薬指に力を入れ、フルパワーで猛ラッシュをかける。もう汗やら涙やらで顔中グシャグシャ状態だ。
1時間、2時間、3時間…ひたすら叩く。叩き続けるのです。かの松井章圭館長は、極真空手の荒行「100人組手」を達成した。私も末席とはいえ極真空手家のはしくれだ。こんなことで負けてはいられない。
巨大なオニオンといえど、たかだかたまねぎだろうが! 叩き始めてから約8時間後、その地味で過酷な作業によって、ようやくきれいなあめ色をしたオニオンペーストが出来上がった。
これが「カリーの種」になるのだ。カリーの種とはおいしいカリー作りの根幹を握る最も重要な基礎であります。
再び私は言いたい。
握り3年。叩き方3年。混ぜ方3年。あわせて9年…否10年やらないとカリーの門には立てないよ、と。カリー作りも極真空手と同じ、「石上十年」の精神が必要なのだ。
私は決してふざけているわけではない。私は本当にそう思っているのです。

●食事の王道は医食同源!

本来ならば、病気の予防や健康維持は、毎日の食事によってなされるものでなくてはならないと思います。それがどうだろうか! 現在の日本の食事情はどこかが狂ってないだろうか?
先日の「ミートホープ事件」でもありましたが、今の日本のファーストフードも含め、ファミレスを中心とした飲食業界はどうなっているのだろうか! 1人もプロの職人がいないところで、いったいどうやって食品を取り扱っていけるのだろうか?
化学食品添加物〜合成着色料や合成保存料、光沢料その他を乱用した化学合成品が人体へ与える影響を考えると、本当にぞっとしませんか? 学生アルバイトが作るファミレスの横行で、職人のいる老舗が潰れていく…。それで本当にいいのか!
医食同源。やはり、我々は今一度原点に返って見直すべきものは見直すべきではないだろうか。

●簡単スパイスの使い方

カリーの命ともいえる香辛料は、料理に混ぜるだけで「漢方薬」に変身する! だから、人間の健康維持のためにはとても便利なものだ。香辛料の効能について、以下に例をあげてみる。

コリアンダー/疲労回復、食欲増進、血行改善、鎮痛など。
クローブ/消化促進、健胃効果、口臭予防、防腐など。
ターメリック/皮膚病、二日酔い、抗酸化作用、高脂肪症など。
クミン/滋養強壮、腹痛鎮静など。
チリペッパー/肥満防止、風邪予防など。
カルダモン/鼻炎、頭痛、鎮静効果、芳香作用など。
ナツメグ/神経痛、関節炎、リュウマチ、吐き気など。
スターアニス/風邪、咳止め、新陳代謝活性など。
シナモン/抗菌、解熱、鎮痛、消化促進など。

とはいっても、スパイスの扱い方はとても奥が深くて難解だ。普段の生活のなかで使いこなすのはむずかしい。そこで、今度は日常での簡単なスパイスの使い方を紹介しよう。
ターメリックは、水またはウーロン茶250ccにパウダー小さじ1杯ほど入れて飲むとウコン茶になる。二日酔いに最適! またターメリックを肉ジャガなどに小さじ1杯ほど加えると、味に丸みとコクが出て、旨味が格段にアップします。
カルダモンやシナモンは、ミルクティーなどに入れると風味が増します。入れる際にはパウダーではなく、ホール(生)で入れることをオススメします。クローブやナツメグなどの強い香りを放つスパイスは、やはり重いステーキなどの肉料理に最適だ。加える際はほんのすこ〜しずつサーロインステーキなどにふりかけてみてください。香りが出て格段においしくなること間違いなし!
クミンはカリーに欠かせないスパイスのひとつ。そのほかにもチーズ、野菜炒めなどに加えてもOK。スターアニスは、中華料理のタレや、焼き豚との相性が抜群です。チリペッパーといえば、辛い物好きならカリーに限らず、うどんやラーメン、キムチなどに使われているのは有名。
コリアンダーは、東南アジア料理に多用される、俗にいうパクチーのこと。苦手だという人も少なくありませんが、慣れると病みつきになる香辛料。カリーでは主にホールを使いますが、普通の人が料理で使う場合は細かく刻んである瓶詰めのものをオススメする。これなら、ピザやパスタなどにふりかけるだけで、風味が増して味が格段に上がることうけあい!

●スパイスは「極辛カリー」になった!
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ここで私のお店の宣伝をするつもりはない。
ですが、私が尊敬してやまない小島一志大先生より、たびたびこのブログで紹介していただいたので、知っている方もいると思う。最近、私のお店のある人気カリーのことを巷では「極辛カリー」と呼んでいるそうだ。ちなみに「極辛」=「キョクシン」と読む。
間違いやすいので付け加えおくが、「極辛カレー」は偉大なる極真空手の大先輩・大沢昇師範が経営する大沢食堂の名物料理です。「極辛カリー」と「極辛カレー」は違います。間違われてしまうと、私は腹を切らなくてはならなくなる。
さて、私の店の「極辛カリー」だが。
辛さの成分は、やはり唐辛子(チリペッパー)からきてはいるが、実はあの猛烈な辛さの割に、使っている唐辛子の量は少ない。幾多のスパイス本来の辛味成分が相乗効果を生んで、絶妙の辛さが味覚を刺激するのである。オニオンで作った「カリーの種」、数種の野菜ベースの旨み、スパイスの辛さ…。これらを同時に味わえる限界点が我が「極辛カリー」なのだ。
この「極辛カリー」を食すると、あ〜ら不思議! 風邪が治ったり、二日酔いに効いたりする。これが本当に効く。そういう意味では、「極辛カリー」こそ、カリーの極み、否、医食同源の極みであると私は断言してやまない。

以上、散々偉そうなことを書きましたが…私、とあるカリー屋さんは、まだまだ一無名の弱小店舗です。でも、しつこいようだが私も極真空手家のはしくれだ。「極真魂」を持って頑張りさえすれば、いずれ絶対に…!
あっ! そうだった。
明日は「オニオンの日」だ。オニオンの日の前日は、いつも天国からの大山総裁の声を聞く。
「キミ〜やれるかねぇ」
「押忍!」


記/一撃倶楽部・範士&師範代 The ROCK-MAN


※小島より
The ROCK-MANさん、せっかくだからお店の宣伝しちゃおう。以下がお店のHPです。
http://www2.tcnet.ne.jp/tajmahal/

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投稿/『カリーおじさん』に愛を込めて…。〜一撃会範士・THE ROCK-MAN

「カリーおじさん」に愛を込めて…

我が人生に悔いはなし。カリー界の巨星墜つ!



有限会社タージマハールの創業者。「カリーおじさん」こと山田泰(代表取締役)が去る2007年1月29日午前10:06分に心不全のため永眠した。享年59歳。


故・山田泰は23歳で上京。インド料理店デリー高岡末広町支店に入店。その後、軽井沢店に移る。インド料理のノウハウを会得し、デリー高岡ステーションデパート・デリーあわら店を経て、1988年、富山市栃谷でカリーとインド料理のお店「タージマハール」(現・有限会社タージマハール)を施す。
80年代前半から、デリーにおいて天才的な才能をいかんなく発揮した山田は、インド固有の特色を維持しながら独自にアレンジを加え、メニューのみならず、その本格的な味は多くのファンを集めた。また、どこか古きよき昭和の香り漂う雰囲気の店内・外観は特に中高年層に好まれた。
身長160センチ、体重75キロ、3頭身で小太りな体型、パーマ頭(70年代後半〜80年代後半頃と晩年はオールバック)に髭の「だるまさん」のような愛嬌のある風貌は中学、高校生などの若年層にも「カレーおじさん」の愛称で親しまれた。
デリーあわら時代の80年代前半は、ブラックカシミールカリーをシリーズ化して大人気を博した。「タージマハール」では、このブラックカシミールカリーの味の精練と向上に力を注いだ。さらにレッドカシミールカリー、グーンカシミールカリーで富山県内の「辛いものブーム」に火をつけたのも山田である。
また、シーフードカリー、ナン、スパイスソースのかかったタンドーリチキンなど、20数年前の人々には全く馴染みのない料理を人気商品へと押し上げ、「毎日行列の出来るカリー屋さん」として、県内のグルメブームに一石を投じた。


タージマハールでは、従来の「カリー屋さん」から「インド料理レストラン」への脱皮に成功。独断専行型で郷土主義者の山田は、カリーをデリー時代のカレーよりもさらに改良し、インドのカリーでも、洋食カリーでもないタージ特有でかつ、米どころの富山県民の味覚に合うようなカリーメニューを模索した。試行錯誤の末、ついに現在の定番メニューである「定食」を完成させた。
「定食」とはカリーをお味噌汁に見立て、ご飯とメイン料理、サラダがついたメニューの事を言う。カリーはご飯にかけるものだが、お味噌汁のようにスープとして味わう事も出来るメニューに仕立て上げ、これが幅広い層にうけた。「定食」の中でもタンドーリチキン定食(タンてい)や、から揚げ定食(カラてい)は、現在もおなじみのメニューとして一般層に好まれている。
常連の中では著名人も多く、カリーフリークを自称するミュージシャンの黒沢薫氏(ゴスペラーズ)は自身の富山公演において「タージのカレーは世界一」と賞賛し、同じくカリー好きで知られる作家・小島一志氏(「大山倍達正伝」著者)は「東京のカレー店はくまなく回ったが富山のタージマハールが一番うまい!」と絶賛している。
全国の有名チェーン店などにも多大な影響を与え、また経営者としても「オレ流」を貫き、その卓越した独特の手法は飲食業界のみならずジャンルを超えて支持された。


近年は、主な事業を長男に託し、泰がこよなく愛した国、スリランカの貧困層の子供たちのために学校を建てるという壮大な構想を立ち上げ、スリランカ政府に表彰されるという文化的な一面ものぞかせていた。
「カリーで世界平和や!」生前そう語っていた事もあった。
山田家は家系的に気性が激しく短命のため、縁者が極端に少なかった。そんな家系で幼少時代に重度の気管支炎ぜんそくに冒され、死線を何度もさまよった経験からか、孤独を嫌い無駄な論争を嫌った。厨房では店員に決して怒鳴りつける事はなかった。
カリーに燃えカリーに生きた山田は、プライベートでの趣味はこれと言ってなかったが、晩年は新しく増設した店内のカラオケルームで、石原祐次郎の「我が人生に悔いはなし」を熱唱していた。
徹底した合理主義かつ楽天家であり、強烈な郷土主義ぶりは「富山発」というタージマハールのキャッチフレーズに表れている。そして風貌には似つかわしくはないが、店内では埃一つ残す事をゆるさない潔癖症でもあった。床にガムテープを張り店内の隅々まで埃やチリ、髪の毛などを一本残らず取り去るのが日課だった。
毎日ガムテープを片手に店内を歩き回るその姿は、その昔劣悪な環境の中、幼少時代におかされた喘息の再発予防だったのかもしれない。親族が少なく孤独を嫌った山田は、近しい人間には血縁関係がなくとも「親族」として扱う事を好んだ。
店員として働くスリランカ人を「家族」として見立て、今年の2月にスリランカの学校設立のための土地を確保するためスリランカへ視察に出かける予定だったが…。
1月29日午前10:06分、家族が見守る中、必死の蘇生の甲斐もなく心不全により、帰らぬ人となった。急死だった。「カリーおじさん」らしく店内にある自室での最後だった。


謹んで故人のご冥福をお祈り致します。そして故人の遺志を受け継ぐ決意とともに。
合掌。



一撃会・範士 THE ROCK-MAN



※小島より
この原稿は、元々は「THE ROCK-MAN」氏が私への決別の思いを込めて送ってきたものである。
某月某日、一撃倶楽部の解散を一方的に決定する私に対し、結社の絆を重んじる彼は必死に反対した。結局、彼の熱意をはじめ仲間たちの結束力の前に、私は「一撃倶楽部」を「一撃会」に名称変更することで、再会を決意することになる。
「THE ROCK-MAN」は、この原稿によって、自らの熱い思いを私に託そうとした。また彼の覚悟の言葉だと私は理解した。
この原稿をブログに掲載することについて、私は「THE ROCK-MAN」氏に許可を得ていない。親族・仕事関係のしがらみから、掲載についてOKをできないだけでなく、彼自身の主義としても、せめて山田氏の喪が明けるまでは公開したくないという思いもあるようだった。
しかし、私はあえて独断的にこの原稿の掲載に踏み切った。私は逆に、「THE ROCK-MAN」の山田氏への敬慕を一刻も早く公開することこそが、山田氏への弔いになると判断したからである。
この原稿の掲載について、全ての責任は私・小島一志にあることを、ここに明らかにしておく。

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2007年10月18日

雑話/「力なき正義は無能なり」〜原点・幼稚園時代

「力なき正義は無能なり」〜原点・幼稚園時代
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幼稚園時代のことを少し書いておきたいと思う。
話は1960年代の中頃に遡る。いま流行りの「昭和時代」ど真ん中である。
僕が物心が着いた頃…いま僕が思い出すことが出来るもっとも遠い時代、それは僕が幼稚園に入園した4、5歳の頃である。そんな1964年前後の話だ。
うっすらとした記憶のなかで、それでも鮮明に頭のなかで踊っているメロディーがある。それは〈梓みちよ〉の「こんにちは赤ちゃん」と〈舟木一夫〉の「高校三年生」だ。いつもどこかでこれらの歌が流れていたような気がする。たとえば近所のお肉屋さんへお使いにいったとき、隣の電気屋さんでテレビを見ていたとき(当時は各家庭にテレビがない時代だった。テレビとえば電気屋さんか「義兄弟」の梁川の家にいかなくてはならなかった)。必ずといっていいほど「こんちには赤ちゃん」と「高校三年生」が僕の耳に飛び込んできた。
ただ、僕はといえば幼かったからという理由もあるかもしれないが、これらの歌をちっともいいとは感じなかった。それよりも、父親がいつも家のステレオで聴いていた村田英雄の歌の方がずっと好きだった。
ちなみに家のステレオだが、ビクターの4足スタイルの当時としては超高級品だった。博徒で道楽者の父親は、普段はしみったれのクセに、自分が好きなものには銭を惜しまなかった。
父親はいまでも当時のことを言う。酒を飲む度、鬼の首でも取ったかのように繰り返す。
「夜、布団に入って俺が村田英雄の『白虎』を歌ってやると、一志はいつも涙を流して聴いていたもんだ…」
父親の前では「そんなこと覚えていない」と憮然としながら応えているが、正直言うと父親の話はウソではなかった。たしかに僕は村田英雄の大ファンだった。村田英雄の歌のなかでも、特に「白虎」は好きだったし、その哀愁を帯びたメロディーと愛国的な歌詞はいまでもはっきりと思い出すことが出来る。
何故、父親が歌う「白虎」を聴くと涙が流れてしまったのか? いまもって理解できないが、やはり「白虎」が持つ物悲しい雰囲気が恐かったのか、それともそのムードに感動したのか、もしくはそのどちらでもあったと思う。


さて、僕が通っていた幼稚園は「観音寺幼稚園」といって、名前どおり大きな石造りの観音様が庭に建っているお寺だった。本質的に人見知りが激しく内気な僕は、毎日毎日幼稚園に通うのが嫌で仕方なかった。いつも途中まで母親に連れていってもらった。幼稚園が近づくに連れて僕は母親の手を強く握り締めた。
「子供なのにあんなに力があるなんて私はびっくりしたよ。それほど幼稚園が嫌なんじゃ、かわいそうに思ったしね」
僕が大人になってからも母親はよく言ったものだ。しかし現金なもので、幼稚園に着いてしまえば僕は一転して人格が変わった。急に元気になって剽軽な子供に変身するのだ。ひとりっ子だった僕は(弟が生まれるのは僕が中2になったときだ)みんなと遊ぶのがこの上なく楽しかった。
幼稚園の思い出といえば、何といっても「竹登り」である。当時、幼稚園の裏庭には大きな竹林があって、そのツルツルした竹を誰が最も高く登れるかを競うのである。誰もが自分専用の竹を持っていて、それを「これが俺のシンショウだかんな」と宣言するのだ。そうすれば、その竹は宣言した者以外は登れなくなるという暗黙の了解があった。つまり、「自分のもの」という意味で「俺のシンショウ」といったわけで、「シンショウ」が「身上」の意味だというのは大人になってからわかったが、何故、幼稚園児が「身上」などという古い言葉を使っていたのかはいまだに不明である。
ところで、僕は中学に入る頃まで体育や運動が大得意だった。特にかけっこでは負けたことがないし、運動会のリレーではいつもスターだった。クラス対抗戦に出れば「○人抜きをした」といってはクラスメートに英雄扱いされたし、町内対抗戦に出場すれば翌日から近所の話題の的だった。
それは小学生の半ば、手の着けられない「ワル」に変貌し、教護施設や教育委員会をいったりきたりするようになってからも変わらなかった。いつもはクラスや近所の鼻つまみ者だった僕でも、運動会や市民体育大会になると、一転して大スター扱いをされた。
しかし…。
僕の場合、人一倍感受性が強かったのか、それとも当時から相当なひねくれ者だったのか、スター扱いされればされるほど僕は不機嫌だった。何故なら、称賛の言葉のなかには、明らかに僕の心を錐のように刺すムカつくものも少なくなかったからだ。
「カズシちゃんは小さいのによくやった」
「背が低くくても凄いよね」
なんていう言葉である。子供心にも、僕は「小さいから特別扱いされているのか…」「こいつら、デカいヤツらと競い合ったら勝てないと思っているのか?」といつも不満だった。
考えてみれば、その頃から自分が小さいということに対するコンプレックスを抱き始めていたのかもしれない。だから、僕は「小さいのに偉いね」などという周囲の言葉に対しては徹底的に反抗した。といっても子供の反抗はタカが知れていた。どんなに誉められても絶対に無視して返事をしないというのが僕の唯一の反抗手段だった。
大人たちは僕を可愛げがないと思っていたかもしれない。誉められてもブスッとしている僕に対し、あからさまに不快な表情を浮かべた大人もたくさんいた。僕はそんな大人の狡さというかあざとさが大嫌いだった。
やはり、僕はすでに幼稚園児の頃からひねくれた嫌なヤツだったのだ。
話を竹登りに戻す。運動神経がよかったのと、体重が軽かった(僕は中学に入るまでずっとクラスで1番か2番程度に小さくて痩せ細った子供だった)という理由で、僕は竹登りが大の得意だった。いつも誰よりも高く登れた。だから僕の「身上」はいちばん太くて高い竹だった。


幼稚園時代といえば、次に紹介する思い出も、否、これこそが生涯忘れることができない痛烈なものだった。
ひょっとしたら、現在の僕があるのもこの「事件」がきっかけかもしれない。まさに「小島一志」の原点がここにあるといっても過言ではない。それほど 僕にとって大きな出来事だった。
それは粘土工作の時間のときに起きた。
僕は一生懸命、粘土でヘリコプターを作っていた。僕の隣で作業をしているフサオちゃんは粘土工作が得意で、やはりヘリコプターを作っていた。僕は小さなライバル心をフサオちゃんに抱き、フサオちゃんより上手に作ってやると心に誓っていたのだ。そしてやっと完成間近というとき、工作に飽きてそこら辺を遊び回っていた3人の園児(年長)がワイワイはしゃぎながら僕の方に走ってきて、アッという間に僕のヘリコプターを踏みつけていった。
原型をとどめずぺちゃんこになった粘土には彼らの靴下の痕がくっきり残っていた。僕はじっと何も言わず粘土を見つめ続けていた。悔しくて腹が立ったけど何故か涙は出なかった。だからといって、その3人組に文句を言ったり、ましてや殴ったりすることもできなかった。
相手は3人だし、以前から「ワル坊主」で有名なガキ大将だった。ましてや僕は、いつも大人たちに「小さいのに偉いね」などといわれていたチビだ。幼稚園児にしてチビであることに大きなコンプレックスを抱いていた拗ねガキである。喧嘩しても勝てないのは明白だった。それ以前に不満を口に出すことさえできなかった。
そんな僕を3人のワル坊主たちは「や〜い、チビ! 悔しかったらかかっておいで」「この○○が! おまえなんか死んじまえ」と罵った。しかし僕は、ただ唇を噛み締めて、じっと耐えることしか出来なかった。
耐えられないほどの「怒り」と「屈辱」という感情を、僕はこのとき初めて知ったのである。そして思った。
「何故、正義が悪の前で勝てないのか?」
子供だから、それは漠然とした不条理感でしかなかったかもしれない。しかし、それだけを僕は何年も何年も自分自身に問い続けてきた。そして、ずっと腑甲斐ない自分に対する自己嫌悪に悩まされ続けてきた。
それは、いくら学校で荒れようが、カミソリを振り回そうが、器楽室の楽器をみんなブチ壊そうが、クラス中の窓ガラスを割ろうが(尾崎豊の歌に、そんな歌詞があるが、僕はすでに小学生で窓ガラス割りを実践していた)、そして真面目になって柔道を真剣に学ぼうが…その自己嫌悪と屈辱感から逃れることは出来なかった。


僕は、もうほとんど諦めていた。
「それが世の中の不条理というものさ…」
高校生になると、そんなニヒリズムに酔うようになった。ところが、あの幼稚園時代の「事件」から約15年後、僕は明確な回答を得ることになるのだ。
極真会館総本部の道場で、大山(倍達)総裁が口にした言葉には全ての答えがあった。
「力なき正義は無能なり…。力のともなわない正義なんて何の役にも立たないよ。逆に正義のない力はただの暴力だ。本物の武士はねえ、毎日毎日剣の技量を磨き続け、常に刃を研ぎ澄まし、それを粗末で貧しい鞘のなかに隠しておくものだよ。そして本当に自分にとって大切なものを守らなくちゃならないときにだけ刀を抜けばいい。しかし、いったん刀を抜いたならば、一撃で敵を討たなければならない。一刀両断で敵を殺すんだよ。それが真の武士の心意気というものだ」


(了)

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2007年10月15日

新極真会世界選手権に思う〜「大山倍達の遺言」の糧として《改訂版》

新極真会世界選手権に思う〜
「大山倍達の遺言」の糧として
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「会場が満員になったとか、そこには無料入場券がバラ撒かれたとか、日本選手の技術・戦法がどうだとか…。そういう事は別にして、私はこの大会を見てハッとさせられた気がするんです。日本選手も外国人選手も、みんな精一杯に頑張っていた。極真空手が好きで一生懸命に稽古に励んで純粋に戦っていた。そんな選手たちに対する真摯な気持ちを私はこの数年、忘れていたような気がするんです。私たちジャーナリストは、どうしても物事を組織論的な視点で見てしまう。原則論を起点にして、組織の問題を中心に考えてしまう。それが本来のジャーナリストの在り方であるのは正しいにしても、そんな組織論とは別な部分で純粋に空手に汗を流している人たちがいる。彼らに対する真心や敬意を失ってはいけない。極真空手を支えているのは、大会で実際に戦う選手たちであり、彼らの後ろにはたくさんの純真な道場生たちがいる。彼らの心を無視して、ただ組織論だけでこの極真会館の分裂劇を捉えてはいけないと、どの団体も、その問題や課題はあるけれど、そのなかで一生懸命に頑張る選手や道場生には極真会館の分裂劇の罪はないんです。みな綺麗な汗を流しているんだという事を、心に刻みながら、私たちは物を書いて批評したり問題提議をしていかなければならないんだと、新極真会の世界大会は教えてくれたような気がするんです」

これは昨日の新極真会主催の世界選手権を観覧した塚本佳子の言葉である。
私も彼女の言葉によって近年忘れていた「大切な何か」を思い出された。そうなのだ。極真会館であれ極真館であれ、新極真会であれ、そこで汗を流して稽古に励む選手や道場生に対する「視点」を失ったならば、それは例え組織論として「正義」であったとしても、そこからは自然と醜い「傲慢さ」が滲み出てくる。それを以て本当の「正義」は存在せず、正しいジャーナリズムではない。
政治ジャーナリストが、仮に中東紛争やイラク戦争を論じるにしても、関係諸国に生きる国民や民衆の「平和」を最重視する意識が基本でなくてはならない。当事国のなかで実際に生活を営んでいる国民・民衆に対する「視点」なくして、「正義」を論じる原理主義的主張は極めて無責任であり、浅薄なものに過ぎない。
それと同様である。


「大山倍達の遺言」の企画は、これまで当事者でさえ知らなかった、または知ろうとしなかった、更には隠してきた組織分裂の過程に伴う「事実」をより客観的に探り当て、この14年間、「闇」に包まれていた「真実」を明らかにしたい、そして大山倍達が遺した「極真空手」の精神はいかなる形で受け継がれているのか? それを検証したいという気持ちから出発したものである。決して「暴露本」などを書くつもりもない。また特定の団体を擁護したり批判するのが目的ではない。
それ故に、私たちは「極真空手」を名乗る、また系統を引くあらゆる団体、道場関係者に取材をして、より客観的かつジャーナリスティックなルポルタージュを目指してきた。殆どの関係者は積極的また消極的にかかわらず取材に協力してくれた。


唯一、新極真会だけが徹底した取材拒否を貫いてきた。
それも一時は夢現舎との間の「好意的な関係改善」を了承しながら、突然何ら明確な理由もなく、一方的な取材拒否通告が紙切れ一枚の郵便で夢現舎に送られてきた。
繰り返すが、私も塚本も過去の新極真会(支部長協議会派)との確執を、自ら反省するところは反省し、彼ら新極真会側の立場を尊重する意志を明確にしていた。実際、事務局長の小井氏には小島自身が謝罪をしているし、今後は一切、論拠のない誹謗中傷じみた批判はしないと約束していた。小井氏は快く小島の誠意に対し、有り余る誠意で以て受け入れてくれた。しかし…。
思いもかけない取材拒否通告に対して、個人的には極めて遺憾であり、怒りの感情を抱いた事は否定しない。なによりも納得できなかったのは、何故一度は快く受け入れてくれた取材協力を一転して破棄したのか? そして、最も重要な事は、あの1995年の「分裂劇」について、新極真会(支部長協議会派)側にも当然存在するはずの彼らの「正義」や「主張」を聞けないという点にあった。
過去、私は支部長協議会派が行った松井章圭館長の解任劇を「クーデター」という言葉で表した。今回の「大山倍達の遺言」をめぐる多くの「極真空手」関係者への取材、特にのちに支部長協議会派を離脱した関係者たちの証言や資料の考察からも、「クーデター」という表現が間違いではなかったという結論に達しつつある。
だが、仮にそれが「クーデター」であったにせよ、イコール「悪」とは限らない。支部長協議会派に組した関係者には確実にそれぞれ、または統一見解として、彼らなりの「正義」が確実にあったに違いないのだ。その彼らの主張を私たちは反映する事ができない。
しかし、それは彼ら新極真会側にとっても決してプラスではないのではないか? 何故、彼らは自らの「正義」を語る事を拒否するのか? 私たちは当惑した。
今となれば、新極真会が取材拒否により一切の主張を封印した「背景」も分かってきた。新極真会の誰がキーパーソンであり、いかなる理由により口を閉ざしたのかも明らかになってきた。そこに新極真会内部の醜い権力闘争が進行しつつある事も判明してきた。
だからこそ、私はブログ上でも組織としての新極真会の問題を、または組織を混乱させている「元凶」に対して、ときには痛烈に批判し続けてきた。それが間違っていたとは思わない。


それでも、私は大切な事を見失ってきたようだ。
例え新極真会の内部にいかなる醜い権力闘争があろうとも、それとは別次元で、日々の稽古に汗を流す1万人以上の道場生がいるのだ。大会を目標に、決死の特訓に精進する選手たちがいるのである。
彼らに一体、何の罪があろう。確かに新極真会の組織は揺れている。だが、新極真会に誇りを持って汗を流す道場生を愚弄してはならない。それは何も新極真会に限らない。極真会館も極真館も連合会も同様だ。
極真会館や新極真会の規模に比べたら弱小でしかない清武会の大会で、渾身の気迫で戦う選手たちも、「極真空手を愛する」という想いにおいては何ら大きな団体に劣らない。
彼ら選手や道場生の想いを顧みる事なく、単なる組織論だけで一個の団体の問題点を糾弾していいのだろうか?
しかし、それがジャーナリズムというものだと割り切るのは簡単だ。むしろ、組織・団体がその内に有する問題や課題から目を背け、選手たちの健闘のみを讃える姿勢は、その世界での共存共栄を第1とする低俗な「業界人」の在り方に過ぎないともいえる。私たちは今更「業界人」に成り下がるつもりはない。
それにしても、我々はつくづく因果な商売をしているものだと思った…。私は塚本とともに、漠然とした罪悪感に悩んだ。だが、それでも私たちは物書きであるし、それを生業にして日々の糧を得ているのだ。勿論、ジャーナリストとしての義務感や正義感も誇りも溢れるほど持っている。
だからこそ、私たちは改めて自己確認をした。
私たちは「大山倍達の遺言」によって、1994年の大山倍達の死後に始まった極真会館の分裂騒動を克明に描いていく。だが、分裂の結果、生まれたいかなる組織・団体であれ、そこで汗を流す人々に対する敬意と尊重だけは忘れまいと。


一方で、全く逆な言い方になるが、私たちはこうも考える。
以下は、組織・団体に関係なく、そこで稽古し試合を目標にする人たちに共通する言葉である。
「組織の問題や分裂なんて関係ないし興味もない。ただ、自分たちはここで頑張るだけだ」
「あっちの団体は正統ではない。自分たちだけが極真空手なのだから…」
これらの姿勢も正しくはないのではないか?
選手や道場生だけでなく、少年部に自分の子供を通わせている保護者も例外ではない。この10年越しにいまだ収まる事のない「極真会館分裂劇」には、明確に客観的な「正邪」が存在する事もまた事実なのである。如何に醜く、裏切りや打算による「選手や道場生不在」の権力闘争が繰り広げられてきた事か…。
主観や感情ではなく、明らかに「そこに存在するべきではない組織」もあると言わざるを得ない。現在、「極真空手」を謳う団体・組織は10を下らない。ならば、道場生も選手も、少年部の保護者も、この「極真会館分裂劇」に対して無関心でいていいはずはないだろう。
前言と矛盾するようだが、やはりその団体・組織で「極真空手」を学ぶ人たちにも意識改革が必要なのではないだろうか。
ただ残念ながら、たとえその意識が彼らにあっても、過去の分裂の経緯を知るよすがも、また各団体・組織が内包する問題や課題をしる術もないという現実がある事は否めない。選手や道場生たちにとって唯一の「情報」は、その組織・団体のフロントや支部長たちによる限られた言葉でしかない。結果的に、団体ごとに洗脳めいた独善的な「正義もどき」が道場の空気を支配する事になる。
それ故に、分裂による混乱のなか、人間関係による不信感や軋轢によって「極真空手」を離れざるを得なかった多くの選手や道場生が存在した。彼らはみな分裂の犠牲者であり、だからこそ「極真会館分裂劇」は醜い権力闘争に過ぎないのである。にもかかわらず殆どの選手や道場生は分裂劇の「真相」を知る事が不可能だった。
そのためのにも「大山倍達の遺言」が多大なる意義を持つ事を私たちは自負している。あらゆる団体・組織に所属する、または現在「極真空手」を離れた人たちに、改めて「極真会館分裂劇」について考えてもらいたい。
「大山倍達の遺言」が、そのための規範または指針となり得る事を目指し、私も塚本も努めて私心なく、よりジャーナリスティックな視点で極真会館の10年を超える分裂劇の「真実」を描いていく決意である。
何よりも「極真空手」を愛し、一生懸命に汗を流す人々への敬意を忘れずに…。


心から言う。
昨日の新極真会主催世界選手権大会。2日間の過酷な強行軍にもかかわらず、見事に戦い抜いた日本選手たち、更に海外の選手たちに、お疲れさまでした。
あなたたちの尊く純粋な「汗」への畏敬の念を心に刻ませていただきます。


(了)

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2007年10月14日

新極真会世界選手権・大会結果 《Best8入賞者一覧》

新極真世界大会
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女子決勝
ヴェロニカ選手対佐藤選手


ヴェロニカ選手の攻撃が佐藤選手の下腹部や顔面に入り度々中断するも、試合続行。ヴェロニカ選手が決勝戦を制した。
海外選手関係者の声援は試合を終わっても止まない。


男子決勝
塚越対ドナタス

予定時間を30分遅れて決勝は行なわれた。
両選手はお互い前に出て打ち合いを始めたが、途中から塚越選手が突きと下段のラッシュをかけ、延長なしで塚越選手の優勝が決定した。まるで往年の中村誠と三瓶啓二による「相撲空手」の再現を見るような迫力だった。


試合結果
●男子
優勝/塚越孝行(日本)
準優勝/ドナタス・イムブラス(リトアニア)
3位/ヴァレリー・ディミトロフ(ブルガリア)
4位/ローマン・ネステレンコ(ロシア)
5位/マキシム・シェヴチェンコ(ロシア)
6位/ダリウス・グダウスカス(リトアニア)
7位/塚本徳臣(日本)
8位/デニス・グリゴリエフ(ロシア)

試割賞/マキシム・シェヴチェンコ(ロシア)
敢闘賞/ヴァシリ・クディアコフ(ロシア)
技能賞/ヴァレリー・ディミトロフ(ブルガリア)

●女子
優勝/ヴェロニカ・ソゾベトス(ヨーロッパ)
準優勝/佐藤弥沙希(日本)
3位/福田美み子(日本)
4位/ゲルガーナ・アタナソヴァ(ヨーロッパ)
技能賞/ゲルガーナ・アタナソヴァ(ヨーロッパ)
敢闘賞/将口恵美(日本)


記 秘書補/北岡

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2007年10月10日

改訂版/男40歳、自分自身へのケジメの為の空手再入門〜一撃会・Dr.SHIVA

男40歳、自分自身へのケジメのための芦原会館入門



私の人生の節目には常に格闘技がありました。
大学医学部入学を目指して栃木で仮面浪人をしている時に、極真空手と出会い、精神的な踏ん張りを学ぶことで念願の医学部に入ることができました。
また大学で留年してしまった時には、シュートボクシングに打ち込むことで、不安定な時期をなんとか乗り越えられたような気がします。
更に、2年前の離婚騒動の時にはかなりの鬱状態になってしまいました。何にもやる気になれず、覇気や勇気さえ忘れてしまった毎日のなか。しかし、その時も思い切って地元の直接打撃制の空手道場に通うことで、明日の見えない鬱状態を克服することが出来ました。
このように、私の人生の危機は格闘技と関わり汗をかくことでなんとかやり過ごしてこられた気がするのです。しかし、そう書くと、私をいっぱしの格闘家のごとく錯覚する人も多いかもしれません。ところが現実の私は格闘家とはほど遠いチャランポランな人間でしかありません。
極真空手もシュートボクシングも、某直接打撃制の空手も、みな中途半端で、黒帯を手にすることもプロライセンスを取ることもなく、最終的には挫折してしまいました。40歳を越えた今でも、ひとつの格闘技に打ち込みきれなかった自分自身の弱さやいい加減さに自己嫌悪に陥る時も少なくありません。私は格闘技に対する大きな挫折感を抱えて過ごしてきたのです。


離婚を契機に職場近くにマンションを借り、私の1人暮らしが始まりました。仕事と生活に追われ、更に孤独な毎日を過ごしているうちに、徐々に格闘技への「こだわり」も変化していくことになります。
それはまさに「逃避」そのものの自分の生き方を象徴するものでした。昔の私にとって、「格闘技は自分が痛い思いをしながらも実際にやるもの」でした。しかしこの頃から自分のなかで、格闘技という存在が「やるもの」から「見るもの」へと変わってきてしまった気がします。
それでも、小島一志先生のファンだった私は、自分を偽り、自らが実践者である事をアピールしてコミュニケーションBOXの会員にしてもらい、「一撃会」のメンバーにも加えてもらったのです。
しかし、化けの皮はいつしか剥がれるものです。私の本性は、コミュニケーションBOXや一撃会の居心地よさに馴染むに従い、無意識のうちに露わになっていきした。
そしてとうとう、私はある事件を起こしてしまいました。
ある日の「一撃会」の会合のなかでの事です。私は浮いた気持ちで近所の派手さを売り物にする総合格闘技のジムに体験入門し、その時の様子を吹聴したり、総合格闘技について知ったような評価を軽薄にも得意になって論じていました。
さらには、芦原会館某支部の悪口ともとれる噂を不謹慎にも口にしてしまいました。
そこには、以前の私が嫌っていた「格闘技オタク」のように成り下がった自分がいました。実際に道場に入門し体験したわけではないのに、根も葉もない噂を口にする、まさに2ちゃんねるなどを居場所にする格闘技ヲタクのような私の発言は、過去に格闘技に携わった者として許されるはずがありません。また小島先生を中心に固い結束力を誇る「一撃会」メンバーにとっては絶対にタブーな言動でした。
その自覚のない自身の無責任さこそが、「格闘技は見て楽しむもの」と思っている内面の表れそのものだったのでしょう。
そんな私の軽率さを小島先生が見過ごすハズはありません。
私は小島先生にこれでもかというほど厳しく叱咤されました。格闘技の実績もなく、黒帯を締めることもなく、ただほんの数年間、幾つかの格闘技を経験しただけの中途半端な人間が、一度体験入門しただけで「総合格闘技の打撃がどうだ、グラウンドはうんぬん」と評論し、何の確証もないのに芦原空手を批判する。
小島先生が最も嫌う事であります。
小島先生の理屈が正しいのは言うまでもありませんが、それ以上に小島先生からの制裁の恐怖にパニックになった事も本当です。
逃げたい!と思いました。
この1年間、私は独立開業を計画し、日々経営の準備に翻弄されてきました。通常の勤務を怠る事はできない。その上で銀行からの融資など経済的な問題や開業場所の選択など、常に頭のなかはいっぱいな状態が続いていました。
なんとしても開業したい!
そんななか、自ら起こしたトラブルであるにもかかわらず、「もういいよ。自分には仕事があるん。格闘技なんてどうでもいいじゃないか」と自分に言い訳し、逃げる口実にしようと思いました。
しかし、そんな私の姑息な言い訳も小島先生はお見通しです。
逃げられない。
筋を通さないかぎり、「一撃会」からは逃げられない。小島先生は、「実際に芦原会館に入門して初心に戻って汗を流すことが筋を通すことだ」と言いました。尊敬する一撃会の先輩たちからも小島先生と同様のアドバイスを頂きました。
私は悩みました。実際に開業準備が行き詰まり、夜も眠れないことも続いていたからです。
もう、いまさら格闘技なんてできない。そんな精神的な余裕も肉体的なゆとりもない。
でも、逃げられない。
考えてみれば、コミュニケーションBOXのみなさんも仕事に打ち込み、一生懸命に働きながら格闘技に夢をかけている人ばかりです。ある会員の人は某流派で黒帯、指導者であったにもかかわらず、小島先生の理路整然とした格闘技理論と、例の怖い説教の洗礼を浴び、結局それまで十年も親しんでいた流派を離れてゼロから極真空手に入門しました。仕事も多忙で40歳を超えながら、「人生は一度しかない。悔いを残したくない」と決断したのです。
ならば、私の言い訳など、子供の言い訳にもならないと思いました。逃げられないとか、小島先生が怖いとかいうネガティブな理由でなく、「末席であっても、私も一撃会のメンバーなのだ」という誇りとともに、ともに戦い続けている仲間と大切な「何」かを共有したいと思うようになったのです。
40歳を越えて、自分の身体がどこまで動くか大きな不安がありました。ましてや、あの『ケンカ十段』で有名な芦原英幸先代館長が創設した流派です。入門すると決めるまでかなりの勇気が必要でした。しかし今しかない、まだ体が動く今しかないと私は入門を決心しました。


筋を通すため、また自分へのケジメをつけるために入門した芦原会館ではあります。しかし、私は入門当日から芦原空手の虜になりました。
稽古初日は緊張でがちがちでした。本当に久しぶりの稽古でした。2時間の稽古が終わる頃、道着は汗でぐっしょりです。しかし稽古が終わった瞬間には何とも言えない安堵感と充実感が沸いてきました。
練習後にみんなで床をほうきで掃いて雑巾がけをする、そんなことすら神聖な儀式のような気がしました。自分が本当に無心になれた瞬間でした。
自分の原体験にもどったような気がしました。
今でも基本稽古の前蹴上げすら思うように上がりません。20代の頃は楽にできたことが思うようにできない自分の身体が歯がゆいです。しかしそれでもいいと思っています。
無心に突き、蹴る瞬間が今の自分には必要なのです。それが今まで驕り錆びついていた私の心を本来の自分に戻してくれるような気がするからです。
本当に素晴らしい道場です。芦原会館には、普通の空手道場にありがちなギスギスとした感じはなく、お互いを伸ばしあうような雰囲気があります。中年が始める直接打撃制空手の道場としては、芦原会館こそが理想的ではないでしょうか。


何も知らずに芦原会館の悪口を叩いた自分が今更ながら恥ずかしく思います。
年齢とともに歪んだ自分にカツをいれてくれた小島先生はじめ、コミュニケーションBOXの仲間や一撃会の先輩方に、謝罪とともに心から感謝いたします。
黒帯を取ろうなどと大それたことは思いません。どこまで出来るか正直わかりません。稽古が終わり道場を出て先輩方とJRの駅まで歩きます。
全身を被う風がこんなにも気持ちがいいことに久しぶりに気づきました。


記/一撃会 Dr.SHIVA


※小島
人間は誰しも弱いものです。自身が背負っている挫折感やコンプレックスを無意識のうちに隠そうと小さなウソや大言壮語を口にしてしまう。それは人間のサガというものであり、それを以てその人間の人格を否定する権利は誰にもありません。
実際、私自身も過去、現実から逃げ出し、その後ろめたさを隠したいが故に、許されない暴言や強がりを公言した事も数知れません。しかし、いくら自分を飾っても「弱い自分」を隠す事など不可能なのです。
だから私ははっきりと断言する事にしました。
「私は早稲田大学極真空手同好会を逃げ出した弱虫である」
「極真空手の経験者とは言いながら、盧山道場でも空手を全うすることなく、何の実績も残せなかった末席のまた末席を汚すだけの存在に過ぎなかった」
しかし私は思うのです。自分の弱さや挫折感に背を背けず、それを糧にしてきたからこそ、現在の私があるのだと。
一個人として言うならば、私など極真空手の入り口をウロウロしていた半端者に過ぎず、空手や格闘技を語る資格などないと思っています。
一方で、私は生涯の恩人である芦原英幸の言葉を一時でさえ忘れた事はありません。
「空手のチャンピオンだ、空手の先生と言われて偉ぶっていても、そんな人間は人生という道に於いてはヒヨッコに過ぎないんよ。たかが空手家、それだけで世間の誰が認めてくれるほど甘くはないけん。むしろ毎日命を賭けて海に出てる漁師さんや、毎日毎日、ラーメンを作り続ける中華屋の親父さんの方がずっと人生と戦ってるんよ。空手は人生のちっちゃなバネに過ぎんけえ。空手の黒帯や、師範やって自惚れて、やれ教育論だ精神論やと偉そうに口にするヤツがワシは大嫌いじゃけん。もっと人生と戦っている人たちは山ほどおるけん。だからワシは生涯、空手職人でええ。小島もそこんとこ忘れたら足元すくわれるけん」
異口同音の話は何度も聞かされました。空手で戦う事より人生のなかで戦う事の苦しさ…。私はこの20年間、嫌というほど思い知らされてきました。
だからこそ、Dr.SHIVAの行動は素晴らしいと、私は畏敬の念さえ抱いています。もっともDr.SHIVAが書いたように、コミュニケーションBOXには、そんな勇気のある、仕事に精一杯の汗を流し、家庭に悩みながら戦っている人たちがたくさんいます。私は彼らから毎日のように多くの事を学んでいるのです。ある意味で、彼らはみな私にとって「人生の師」でもあるのです。
Dr.SHIVA、どうか胸を張ってコミュニケーションBOX、そして一撃会に戻ってきて下さい。そして、BOXのみんなも、どうか温かくDr.SHIVAを迎えてくれる事を望みます。

samurai_mugen at 06:26|Permalinkclip!投稿