小島&塚本作品集

2007年09月08日

小島一志作品集/「Net掲示板での批判についてジャーナリストとして答える」

(1)Net掲示板における誹謗中傷についての見解


2006年4月30日。まだ「大山倍達正伝」が制作中のことである。
「大山倍達正伝」制作の協力者である「大山倍達研究家」ことM氏のHPにおいて、「大山倍達正伝」の著者が小島一志、塚本佳子であることが発表された。
それを契機として、先のHPでは小島に対する根拠のない批判の書き込みが多数見受けられるようになっていった。「2ちゃんねる」などの掲示板にまま見られる、事実に基づく確証や論拠の一切ない小島に対する誹謗中傷への見解として、小島は以下の文章をM氏のHPに寄稿した。




Netの掲示板の書き込みを読んでいて私が許せないのは「事実に基づく確証なく批判する事」です。
確かに過去の私の文章はある面過激であり断定口調が問題にされる事もあります。しかし次の点だけは明確にしておきたいと思います。これから書く事は、全てのNet掲示板で私を批判する人に向けたメッセージだと理解して下さい。

私は物書きが商売で、物を書くのが仕事です。「○○を批判して飯の種にしている」というのならば、評論家やジャーナリストは皆そうだという事になります。それじゃ皆さん、あなた方は何にも「飯の種」にしていないのですか? サラリーマンとして営業に携わる人は会社の製品を売る事を飯の種にしているのです。 証券マンは株を人に売る事を飯の種にしています。
物書き、作家は文章を書いて飯の種にしているのです。特にジャーナリストは政治経済社会風潮、または「公人」を批評する事を飯の種にしています。
私は極真会館の分裂騒動を書いて飯の種にしています。黒澤浩樹の事を書いて飯の種にしています。当然の事です。私は物書きのプロですから。

私が著書の中で「ある事ない事を書く」「人格否定をする」というならば、私が今までどんな事について「ない事」を書いたのか教えて下さい。どの点が人格否定になるのか具体的に指摘して下さい。「大学教授のM氏が…」ではなく、教授の実名を挙げて欲しい。もしくは教授自身が匿名で私を批判しているならば、名前を名乗って下さい。
それならば、私は実際にその教授に会いに行きます。北海道でも沖縄でも私は堂々と出向いて行きます。実際に会って事の真偽を確認します。仮に私を殴りたいというならば何時でもケンカは買います。
これは私の覚悟の言葉です。
「何時でもケンカを買う」と書けば、今度は「小島はヤクザだ」「実は暴力団構成員だ」と話を膨らませる愉快犯…。まるでイタチごっこのようです。

ちなみに大道塾の東氏と私の間の確執も、その原点は長田賢一さん達当時の指導員から直談判された東氏への苦情を、私があえて憎まれ役を買う形で受けて進言し、それを嫌った東氏が「大道無門」という機関誌に「小島は情緒不安定なので以後小島と付き合う者を禁じる」と書いたのが発端です。
私が福昌堂を辞めたのも、私が個人的に東氏に書いた手紙の中の「ボーナス等がない福昌堂の社員に対する待遇の悪さを記した部分」のみを、東氏自ら抜粋コピーして福昌堂社長・中村文保に見せて小島の解雇を迫った事が原因です。この事実は格闘技編集者・山田英司氏も知っている事実です。東氏のこれらの行動こそが明らかに常軌を逸したものではないでしょうか?
また東氏は自著の中で「小島が独立して新雑誌を作る為にお金を借りにきたが断って諭した事を逆恨みして大道塾の悪口を言いだした」と書いています。それこそが「ない事」です。私は1度たりとも東氏に借金を頼んだ事はありません。
1980年代、東氏がいかに経済的に困窮していたか私はよく知っています。当時、大道塾の台所を支えていたのは東氏ではなく、幼児相手の英語教室や無認可の託児所を副業として営んでいた奥様でした。大会入賞者3名をたった1泊の温泉旅行にも連れていけないほど、大道塾の経済状態は逼迫していました。
機関誌「大道無門」も私は一切無報酬で作っていました。否、デザイン代などは私の安月給からの持ち出しでした。そんな事は長田賢一さん達、当時の弟子がよく知っているはずです。
噂によれば最近、東氏は「小島から突然電話がきて仲直りしたいと言い、大道塾にやってきて東氏に土下座をしたが許さなかった」と吹聴しているようです。ライターの家高康彦が実際に東氏から聞いたと私に語っています。しかし私は東氏または大道塾の電話番号も知りません。勿論、東氏には電話もしていませんし、会ってもいません。
ただ今後、機会があれば何時でも東氏に会う意志はあります。もう20年近くも昔の事です。全てを水に流して東氏と付き合うのもやぶさかではありません。しかし、その為には筋の通った手順が必要です。
私は東氏との確執の経緯を振り返っても一切間違った事はしていないし、「ある事ない事の嘘」は書いていません。
小島の言動が「ある事ない事の嘘の固まり」というならば、長田賢一さん達、当時の指導員に直接、あの時の小島と東氏の経緯を聞いて下さい。長田賢一こそが小島と東氏の確執の原因を熟知する証人です。

大道塾の東氏関係の「ガセ話」とそっくりな構図が、新極真会または新極真会支部長の三瓶啓二氏に関する話題です。
三瓶氏が新極真会の陰の支配者であり、大山倍達の遺児と深い関係になり、子供を生ませた事実は簡単に証明できる「事実」です。実際、三瓶氏本人がアメリカで認める発言をし、子供は認知までされています。
それを必死に新極真会関係者がNetに「全ては小島の捏造だ」と流し、小島を悪役に仕立てて新極真会擁護にやっきになっています。私が書く事が「捏造」だというのならば、新極真会関係者がNet掲示板に書いているように、早く私を「名誉毀損で告訴」して欲しいものです。裁判で明らかにするのは私こそが望む事です。
Net掲示板などであらぬ噂を流すのは三瓶啓二という人間の陰湿さに合っている、三瓶と2ちゃんねらーは随分、相性がいいのかもしれません。

以上はNet掲示板を賑わせる小島批判に対する、私なりの答えの一例です。
匿名で、さらに嘘だけで確証もなく私を批判するのは極めて卑怯だと言っておきます。
少なくとも私は自分の名前を公表し、たとえ「飯の種」であっても公に堂々と批判や評論をしています。Net掲示板で匿名(名無しさん)の小島批判をするならば、自らの名前を明かした上で私の会社(夢現舎)または小島の携帯に直接メールするのが筋でしょう。私は常に自分の携帯のアドレスを公開しています。メールを頂ければ私は喜んで質問に答えます。しかし、それが出来ない臆病者が「名無し」に変身するのです。
今後、あらゆるNet掲示板において確証も根拠もなく人伝てまたは噂だけで私を誹謗中傷する書き込みがあった場合、私は徹底的に戦います。私(夢現舎)には顧問弁護士、顧問エージェント、専属BG&SSがおります(そうでなければ腐れ外道が横行する格闘技界で文筆業など営んではいられません)。
あまりに常軌を逸した書き込みが目立つ場合は、合法非合法的手段に拘らず、必ず書き込み人を特定し、ケジメは付けさせて戴きます。 続きを読む

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2007年08月28日

小島一志作品集/芦原英幸について(2001年4月)

2001年4月 
「芦原英幸について」


私はこれまで機会あるごとに書いてきた。芦原英幸こそ、最高にして最強の空手家・武道家だったと――。
もっとも、何を以て最強とするのかということを突き詰めていくならば、それはナンセンス以外の何物でもない。ならば、次のように言い換えてみよう。
私が過去出会った数百人といっても過言ではない多くの武道家・格闘家たちのなかで、芦原英幸ほど「闘う」ことに対して真摯であり続け、生命を賭する格闘に身を曝してきた武道家を私は知らないということだ。その上で、芦原ほど人間的な魅力に富み、自分自身に対して正直であり続けた男もいないと私は断言する。
芦原に関するエピーソードは数知れない。もちろん、すべて私が自分の眼で見、自分の身体で体験したものばかりである。ここではスペースの都合上、あえてそれらのエピソードについては触れないでおく。だが、少なくとも「強さへの希求」そして「闘い」ということに対する姿勢と技術についていうならば、芦原は紛れもない天才であり達人だった。
その圧倒的な肉体的強さに対する自信があるからこそ、芦原は周囲の人間たちの前で常に無警戒かつ無頓着だった。その天真爛漫さゆえ、芦原は自分の長所も短所も、強さも弱さもすべて周囲に曝し続けた。他人に対して頭を下げることも厭わず、時には敵意ある視線に対して笑顔で答えることもした。
芦原の「強さ」を知らない人間は、そんな芦原の態度を見て過剰なほどに反応し、芦原を侮蔑した。たとえば三瓶啓二が好例だった。だが、仮に芦原が三瓶と闘うことがあったならば、三瓶は5秒と健常ではいられないに違いない。確実に三瓶は殺される。しかし、きっと彼らは内心で芦原の怖さを知っていたはずだ。
だから、彼らは常に芦原を遠巻きにし、小さな声でつぶやくように芦原を罵倒したのだ。決して芦原の耳に直接届くようには言わない。もっとも、たとえそんな罵詈雑言が芦原の耳に届いたとしても、芦原は意にも介しなかった。
「奴ら、みんな弱虫じゃけん。誰一人わしに喧嘩を売れる奴はおらんけん」
そういうと、いつも言って笑っていた。
ひとつだけ芦原の思い出話を書いておく。
ある日、私は芦原と一緒に車で大阪から神戸に向かった。道場生が運転する車は高速を飛ばしたが、下りる出口を間違えてしまった。慌てた道場生はバックのままもとの車線に戻ろうとした。車が何台も100キロを越えるスピードで走り抜けて行くなか、芦原の車は立往生してしまった。すると、芦原は血相を変えて「おい○△、わしはすっごい怖いけん。助けてくれ、頼むけん!」と大騒ぎし始めた。
自分の喜怒哀楽の感情を弟子や私のような他人の前で平気で見せられる芦原に、私はなぜか深い感慨を覚えたものである。自分を飾らず、正直に、そしてありのままに生きることは簡単ではない。
人は自分の弱さを隠そうとするものだ。自分の強さを無意識に誇示しようとするのも人間の性だろう。他人の悪意に対して攻撃的な眼を向けるのも防衛本能を有する動物の本能だ。
しかし、本当に強い人間は、どんな情況のなかでも泰然と自分の「弱さ」を解放することが出来るのかもしれない。私にとって芦原英幸は永遠のヒーローである。人間としての「強さ」の意味を教えてくれたのも芦原だった。さらに言うならば、私が現在、こうして夢現舎の代表として、編集者・ライターとして生きていられるのもすべて芦原のおかげである。
――息子の入試も終わった。大志にとっては長い4年間の闘いも、2月1日からの5日間で終わりを告げた。ただ、この5日間は私達親子にとってあまりにも辛く、苦しい時間だった。
それでも大志は最後の最後まで闘い抜き、自らの手で合格の切符を手に入れた。10倍を越える難関を大志は自分の力で突破したのである。人は大志の合格を奇跡だといった。しかし、たとえそれが奇跡だったとしても、その奇跡を呼び込んだのは紛れもない大志の力なのだ。
これでひとつ、親としての私の仕事も終わった。これからは、しばらく自分のために、物書きとしての「夢」のために生きてみようと思う。
そして、いつの日か――。
いつの日か、私は自分の思いの丈をすべて込めて芦原英幸についての本を書きたいと思っている。3年前、私は大志と一緒に芦原英幸の墓の前で手を合わせた。今度は、私が心から信頼できるパートナー・塚本佳子とともに芦原のもとに行きたいと思う。そして、芦原と2人で歩いた松山の街を、八幡浜の港を…、ゆっくりとあの日に戻って噛み締めてみたい。



(2001年4月 夢現舎HP)

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小島一志作品集/「格闘技ジャーナリズムの確立を期す!」(2000年8月)

2000年8月 
「格闘技ジャーナリズムの確立を期す」


私が何故、近年の格闘技界に大きな危機感を抱いているのか? その理由は拙書のなかで何度も繰り返し書いている。本来、格闘技は実践者のために存在してきた。格闘技もスポーツも、それを必要とし、それを実践することで楽しんだり学んだりするヒトたちのためにこそあるのではないか。それこそがスポーツや格闘技の第一の存在理由である。
観て楽しむことを否定するつもりはない。観客やファンを魅了する演出や努力が格闘技に求められていることも否定しない。だが、それは決して格闘技の至上命題ではない(それはたとえプロであっても例外ではないと私は思う)。
にもかかわらず、近年、格闘技界は急激にエンターテインメント化が進みつつある。「観て楽しければいい」といった考えは、結果的にビジネス至上主義に行き着く。その一方で、何か大切なものが忘れ去られようとしているのではないか?
私は20年間、格闘技メディアの世界に生きてきた。以前から格闘技界は魑魅魍魎、伏魔殿である。他を否定し、自己のみを可とする風潮は遥か昔から格闘技界の常識である。しかし近年、格闘技メディアは格闘技界との運命共同体と化し、一蓮托生の幇間に成り下がった感がある。それは癒着そのものであり、そこにはジャーナリズムなど存在しない。そういうただれきった空気に私は嫌気がさしているのだ。
決してエンターテインメント路線に迎合することなく、格闘技の本質を常に問い続ける姿勢。格闘技界の未来を思うがゆえに、ときには厳しい批評を書くこともある――そんな本物のジャーナリズムを私は望むのだ。そして、格闘技ジャーナリズムの確立を期す新しい媒体――格闘技専門誌発刊の実現を、いま私はスタッフたちと模索中である。


(2000年8月 夢現舎HPについて)

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小島一志作品集/「格闘技界を考える」(2000年7月)

2000年7月
「格闘技界を考える」


私はこの20年、編集者兼作家として格闘技の世界に関わってきた。『月刊空手道』編集長を経て独立。(株)夢現舎を設立後、多くの格闘技関係の媒体を制作してきた。私自身の作家としての活動は、今から10年前『最強格闘技論』を著したのがスタートとなる。以来、合計15冊の単行本を書いてきた。
この間、いわゆる格闘技雑誌がカバーする格闘技界――空手、キックボクシングなどの新興格闘技――は相変わらず伏魔殿の世界である。競技であるはずの空手やキックボクシングが、プロレスと同列の「マットショー」になってしまっていいはずがないのは自明である。
にもかかわらず、選手や練習生を無視したプロパガンダとショーイズムの追求はもはや末期的様相を呈しているといっても過言ではない。昨年、私は『実戦格闘技論』の中で同様の論を展開したが、最近の格闘技界はさらに情況が悪化しているような気がする。その中でも特に私が憂慮しているのは極真空手の変質だ。
大山倍達の死去以来、トラブル続きの極真会館だが、現在でもいっこうに組織分裂は止む気配がない。今では「極真」を名乗る団体が一体どれほどあるのかさえ検討もつかないほどである。
各団体が生存競争と権力闘争に捉われるあまり、「極真空手」そのものが大山が健在だった頃の姿ではなくなりつつある。そして大山が提唱した「最強の極真空手」という言葉も死語になり果ててしまった。
それは、情報の多様化によるファン意識の変化だけが原因ではない。大山倍達が長年かけて作り上げてきた「極真伝説」「極真魂」を、かつての大山の弟子たちがどれだけ遵守しようと努めてきたのか? 目先の権力闘争に捉われるあまり、自らの手で大山が遺した財産を崩してきたゆえの結果だと私は思う。私は何もストイックなアマチュアリズムを主張しているのではない。たとえアマチュアであっても、観客やファンを無視する姿勢は生存そのものを放棄することとイコールである。しかし、それには限度があるだろう。空手を「武道」というならば、決してショーイズムに染まってはいけない。
私は最近、可能ならば格闘技とはまったく関係のない、異次元の世界で生きてみたいと思っている。正直いって格闘技界の情報や噂話もうんざりである。この世界で仕事をしてきて20年、初めて心底から格闘技界が嫌いになった…。


(2000年7月/夢現舎HP・コラム)

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2007年08月05日

小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」(7)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(7)
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(Q)古代オリンピックに採用されていたパンクラチオンの実像!


格闘技ファンならば一度は耳にしたことのあるのがパンクラチオンだろう。周知のようにパンクラチオンは古代オリンピックの種目として行なわれていた格闘技であり、そのスタイルはきわめて実戦的だったと伝えられている。だが、現存する資料を見る限り、パンクラチオンは多分に誇張されて人々に伝えられているようだ。
「禁じ手なしの壮絶な格闘技。急所を蹴っても目をくり抜いても首を絞めてもよかった。勝敗は一方の死をもって決着する─」
しかし、こういった事実は実際のパンクラチオンには全くない。紀元前7世紀に始まった古代オリンピックで正式種目に採用されたパンクラチオンは現在の感覚から見ても驚くほどルールが整備された「スポーツ」だった。それはパンクラチオンの優秀性というよりも、古代オリンピックそのものがいかに進歩的なイベントだったかということの証明といえるだろう。
古代オリンピックは当時のギリシアの支配階級(貴族)たちが運営していた。試合に出場する選手もすべて貴族だった。彼らにとってオリンピックはある意味で「社交場」だったのだ。スポーツという概念は、このような貴族社会が有する土壌から生まれたのである。そして、貴族たちが参加する古代オリンピックは、より完全性や明確性を追求した、「ルール」という約束事の概念を生んだのである。
パンクラチオンも他の競技同様、当時としてはきわめてスポーツ的な格闘技だった。
ところで、ある説によるとパンクラチオンはボクシングやレスリングの原点だといわれている。だがそれは正しくない。競技という観点から見るならば、パンクラチオンが作られる以前からボクシングやレスリングは存在していた。文献によれば、レスリングが古代オリンピックの正式種目になったのは紀元前708年の第18回大会からである。続いてボクシングは紀元前688年、第23回大会から正式種目に採用された。
ところが、パンクラチオンはさらに40年も遅れた紀元前648年、第32回大会において採用が決定した。
格闘技の原点は戦争などの生死を賭けた闘いの場で、自らの身を護り、敵を倒すために生まれた闘争術にある。
この時代、ギリシアを含むヨーロッパは戦乱の時期にあった。人々にとって格闘技は生命にも関わる重要な技術だったはずである。それにもかかわらず、ボクシングやレスリングという、闘争技術を限定してルールに則って戦うという競技を生んだ古代オリンピックはたしかに画期的なものだった。
だが、当時の時代背景から考えて、人々はボクシングやレスリングよりもさらに現実に近い格闘技を望んだと思われる。それがパンクラチオンだった。
文献によればパンクラチオンのルールは次のようなものだったといわれている(ルールを正確に表した文献は残っていない)。パンチや蹴りにはじまり、投げ技、絞め・関節技などあらゆる攻撃が基本的に認められていた。禁じ手は急所蹴り、目潰し、噛み付き、さらに拳による顔面殴打などである。勝敗はギブアップまたはノックアウトによって決まるが、万が一相手を殺したり重大な怪我を負わせた場合は反則負けとなる。
パンクラチオンを現代風に分類するならば、いわゆる総合格闘技ということになるだろう。だが、ここ数年、格闘技界を席巻しているバーリ・トゥードと比較した場合、いかにパンクラチオンがスポーツ的か一目瞭然だろう。特に手による顔面攻撃が認められていないという点は、極真空手の試合ルールにも共通している。
しかし、パンクラチオンは古代オリンピックが中断し、ローマ帝国がギリシアを支配するようになると、奴隷に競わせる殺人ショーにその趣を変化させていった。パンクラチオンの生命は意外に短かったといえる。


(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第2章「これが武道・伝統格闘技の真髄だ」からの抜粋)

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2007年08月02日

小島一志・作品集/「最強格闘技論」(8)〜芦原英幸と芦原会館

小島一志・作品集/
「最強格闘技論」(8)
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「7」サバキを追求する芦原会館

●天才、芦原英幸

芦原会館について述べる前に、その長(館長)である芦原英幸について触れなければならないだろう。
私は今まで、芦原英幸ほど光り輝く人間を見たことがない。「天才」という言葉はまさしく彼の為にあるのではないだろうか。ここ数年芦原は、日々の激務に追われているためか、毎日稽古に精を出しているようでもないし、実際少々太り気味でさえある。だがフッとしたときの身のこなし、実際に道場で見せる動きは、常人とは明らかに次元の違う、恐ろしいほどの鋭さだ。
芦原の技は掛け値なしに「達人」のそれであり、常に生死の淵に自分を追い込んで戦い続けてきた男の凄みに満ちている。
また芦原は人間的にもとてつもなく魅力に富んでいる。極めて個性的で、また希代の自信家でもある。だからそんな芦原に対する周りの感情は極端に分かれる。空手家としての技量から人間性に至るまで、芦原を絶賛する人間がいる一方で、否定的な声を投げ掛ける人間も少なくない。
私もこれまで芦原に対する中傷じみた言葉を何度も耳にしてきた。だが実際の芦原を知っている私にとって、そんな言葉はただのひがみ以外の何物でもなかった。

●芦原英幸との出会い

少々話は逸れるが、私と芦原の出会いについて是非とも述べてみたい。
思えば今から7、8前のことである。当時、私はまだ駆け出しの記者で、毎日格闘技の道場を駆け回っていた。そんなとき、上司から私は「芦原番」に命じられた。「芦原番」といっても、その頃、芦原は地元の松山に篭り、マスコミの取材は一切受けつけていなかった。それでも相変わらず芦原は空手界のスターであり、絶対取材許可を取りつけることが私に課せられた義務だったのだ。
ところが何度私がアポイントを取ろうと、芦原は決してOKといわない。何度電話しただろうか、芦原が上京したのを狙って夜討ち朝駆けをしたこともある。それでも芦原を捕まえることはできなかった。「こうなったら根比べだ!」と私は心に決め、芦原につきまとった。
そんなこんなで1年ほどした後、芦原は電話でこういった。
「申し訳ないがまだ、マスコミに出る時期ではない。でも、もしそんなときが来たら必ず小島君に声かけるから…」
そしてさらに1年近くが過ぎた。相変わらず私は思い出すと芦原に電話を入れていた。そんなある日、私の電話に芦原はやっと重い腰を上げてくれた。
「わかった。それじゃどんな取材をしてくれるのか、明日代理の人間をお宅の会社に行かせるから、そこで話をしてくれ」
こうして翌日代理の人がやって来た。もちろん私を訪ねてである。ところがその人が来ると、急に上司は、私に同席しなくてもいいといいだした。そして上司 と他の記者が芦原の代理人と打ち合わせに入った。
編集という仕事はもちろんチームプレーが大切である。仕事には役割分担というものがあり、それを振り分けるのが上司の仕事である。私の仕事は芦原の取材許可を取りつけることであり、それから後は他の人間が担当者となるということなのだろう。それは上司の判断でそうした方がいいという、それなりの理由があったともいえる。
だが正直いって私の心は晴れなかった。こんなに苦労して2年も粘ってきながら、一体俺は何だったのだろうか。私は屈辱感さえ覚えていた。しかし代理人は 私の上司である「編集長」直々のもてなしを受け、満足そうに帰っていった。上司は私に一言もなく、新しい担当者と引き続き打ち合わせに入った。
それから何時間経っただろう。たぶん代理人が戻り、ことの経過を芦原に連絡した後だったに違いない。突然、芦原から私と上司あてに電話が入った。
機嫌よく受話器を取った上司の顔が見る見る変わった。そして私が代わると、芦原はやや興奮気味な口調でまくしたてた。
「私は小島さんに取材を許可したのであってお宅の雑誌に許可したのではない。小島さんとはまだ会ったことはないが、私は小島さんの熱意に打たれて許可したのだ。だから担当者が小島さんでないならば私は取材は一切受けない。それが私の筋だ」
広島弁だったが、確かこんなことを早口で語っていたことを覚えている。その後私は、人前でもこぼれ落ちる涙を拭うことができなかった…。
こうして私が担当した芦原の特集は、大反響を呼び、雑誌創刊以来、未曽有の売り上げを記録した。

●サバキ

さて、話を本題に戻そう。
芦原空手の特徴は第1に「サバキ」と呼ばれる技術にある。自ら攻撃を仕掛けて相手を倒すのではなく、相手の攻撃を最小限の動 きでかわし、制することを至上とする技術である。そのための実戦的練習方法として、いわゆる約束組手、また上級者と下級者による自由組手が重んじられている。
そして、最も危険な技を駆使する護身性の高い「サバキ」の習得を目的とするゆえに、試合・大会を行なわないのも芦原会館の大きな特色である。
また芦原は、空手の伝統性を重視しながらも、一方で創作型ともいえる「サバキ型」を作ったり、練習体系を極めて合理的にシステム化した。道場経営についても同様だ。空手道場といえば、いまだに前近代的な経営を引き継いでいるところがほとんどである。道場生と指導員との関係もはなはだ封建的だ。
だが芦原会館ではこのような前近代的体質を一切排除した。「内弟子制度」も廃止し、職員制度に組み替えた。道場では指導員は生徒に対し必ず敬語を使うことが求められる。道場はまるでフィットネスクラブと見紛うほどの明るい雰囲気に満ちている。
芦原会館に似た空気の道場は、同じ武道でも合気道にときたま見かけることがある。しかし、空手では芦原会館以外見たことがない。 続きを読む

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2007年07月22日

小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」(6)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(6)
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(Q)キックボクシングと空手、起源は同じ? 何故、技術が違う?


現在の格闘技はほとんど「競技」として存在している。つまり格闘技の技術は、その競技が採用している「試合ルール」によって大きく異なっているということになるだろう。何故なら、技術発展は「試合ルール」に基づくというのが自然の摂理だからだ。
ルールが異なる以上、キックボクシングと空手の技術が違うのは当然といってもいい。第一、同じ「空手」でも、ルールが違えば技術は全く異なる。いまや寸止め空手と直接打撃制空手は別の格闘技といっても過言ではない。
もともとキックボクシング(ムエタイ)も空手も南派中国拳法から派生した格闘技というのが通説である。その原型はほとんど同じといってもいい過ぎではない。しかし現在、両者の技術は似て非なるものである。
さて、完全に異なるルールを持つ異なる格闘技であるにもかかわらず、空手とキックボクシングは常に比較され続けてきた。「空手対キックボクシング」を謳い文句にする異種格闘技戦も過去何度も行なわれてきた。少なくとも外見的には両者がきわめて似た格闘技だから…というのが大きな理由だろう。
もっとも前記したように、空手とひとことにいってもそれは1つではない。現在、空手にはおよそ300とも500ともいえる数の流派・団体が存在する。そして空手の試合ルールも厳密に分ければ100を下らない。そこで、ここではキックボクシングのライバルとされることの多い「フルコンタクト空手」を挙げて、キックボクシングと比較してみる。
キックボクシングのルールは、グローブを手に付けての顔面殴打が認められている。掴んでからの膝蹴りはもちろん、なかには肘打ちが認められている団体もある。試合はラウンド制で行ない、国際式ボクシングに準じた体重制が採用されている。
対してフルコンタクト空手は極真空手に代表されるように素手素足で戦い、ノックダウンによって勝敗を決する。だが顔面殴打や掴みが厳しく禁じられている。
このルールの違いが、両者の技術の差となるのである。キックボクシングは、基本的にアップライトといわれる上体を起こして後ろ足に体重を乗せる立ち方で構えるのが一般的である。両手で顔面を大きくカバーし、相手に対する。パンチはボクシングの技術と近いが、ディフェンスはボクシングほど上体を使わない。
蹴りはステップを使い全身の動きを利用し、しかし蹴り足の膝を抱え込まずに大きく蹴る。キックボクシングで多用される蹴りは、ローキックとミドルキック(中段回し蹴り)、そして膝蹴りといったところだ。
対してフルコンタクト空手の場合、腰を深く落とし、前後の足に均等に重心をかけて構えるのが一般的だ。パンチはモーションが大きく、接近戦が多いためボディアッパーが多用される。蹴りは蹴り足の膝を抱え込み、腰と軸足のバランスで蹴り込む。
キックボクシングに比べてフルコンタクト空手の蹴りは多彩である。後ろ回し蹴りやカカト落とし、横蹴りなどといった蹴りはキックボクシングではほとんど見られない。もちろん、これらの技術に優劣は存在しない。ルールの差が技術に表れているだけだという事を忘れてはいけない。
だが、あくまで「実戦」を想定した場合、蹴り(膝蹴り以外)のみをとればフルコンタクト空手のほうが合理的な部分が多い。一方、パンチや膝蹴り、肘打ちに関しては、キックボクシングのほうが現実的な技術だということは一目瞭然だ。



(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第2章「これが武道・伝統格闘技の真髄だ」からの抜粋)

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塚本佳子・作品集/いま極真会館が求められているもの(2)〜小島解説コラム

塚本佳子・作品集/「いま、極真会館が求められているもの 極真空手と武道」(2)

from「新極真空手」5号



アマチュアリズムの堅持

●女子世界選手権開催の経緯

現在、一見するとエンターテインメント志向性を感じさせてしまいがちな傾向にある「新生」極真会館ではあるが、もちろん松井館長を中心に一貫してアマチュアリズムの道を堅持し続けているのもまた事実である。
それが顕著に表れているのが、女子や少年、壮年部といった一般部以外の生徒の充実である。剣道や柔道をみればわかるように、「武道」もしくは「スポーツ」団体であるからには老若男女すべての人に受け入れられる組織を作る必要があるのは当然である。
「極真空手はいままで、実戦空手を学ぶことにより、肉体的な強さを求め続けてきた。しかし、子供や女性にそのよな強さを求めるには無理があった。だから、あくまでも主体は一般部であり、少年部や女子部は付属的な存在でしかなかった」
これは極真会館最高顧問である盧山初雄の言葉である。この言葉からもわかるように、極真空手の世界では常に少年部や女子部の存在が軽視されてきた。大山総裁自身、子供や女性が一般部と同じようなスタイルで闘うことを潔しとしなったったという。
そういった大山総裁の思いもあってか、少年部や女子部の試合が大々的かつ公に開催されることはなかった。それぞれの支部が独自にルールを試行錯誤しながら、内輪での交流試合を細々と続けていたのが現実である。
しかし数年前から、女子部の間から大会開催の要望が急激に大きくなっていった。特に早くから女子の大会を開催していた海外では、男子同様、世界規模での大会開催を促す声が増えていったという。
そんな声に応えるように1996年1月、ニューヨークにおいて第1回女子世界選手権が開催された。
ルールは男子同様、直接打撃制である。ただし、試合時間は本戦が2分、延長戦が1分で行なわれた。また、すでに外国で行なわれている女子の大会ルールに則り、チェストガード(胸パット)やマウスピースがオプションとしてつけられた。
この大会の成功により、女子の世界選手権に関しては、2年に一度開催していくことが松井館長から発表された。一般男子の世界選手権が4年ごとであるのに対し、女子に限って2年に1度の開催というのは、年齢的な問題を考えての措置と思われる。
女子の場合、あきらかに男子よりも選手生命は短い。それは根本的な肉体の構造の違いから避けられないことである。それを考慮したうえで、試合のサイクルを短くし、多くの経験を選手たちに積ませてあげたいという、配慮なのかもしれない。
また、男子と違って歴史の浅い女子部のレベルを早く上げるといった目的もあるだろう。実際に、世界選手権が開催されてから2年の間に、急速に女子のレベルは上がってきている。なかでも「女子大会後進国」である日本のレベルは飛躍的に伸びているのは間違いない。

●成長著しい日本の女子部

第1回女子世界選手権。
日本からは8名の選手が出場し、型の部に3名、組手の部に6名の選手がエントリーした。
彼女たちにとって、「公式」の大会出場は始めての経験だった。これまで、交流試合レベルでしか試合を行ったことがなかったからだ。ましてや直接打撃制での試合経験がある人間は誰一人いなかった。女子の全日本選手権もなかった当時、いきなりの世界選手権出場は、彼女たちにとってかなり大きな決意を要したはずだ。
しかし、この大会を機に日本の女子部は変わった。世界選手権に出場した選手を中心に、女子部を盛り上げていこうという気運が生まれたのだ。総本部では、女子部の選手クラスが作られた。
そして同年9月、日本でもやっと全国レベルでの女子の大会が開催された。初めての試みということもあり、まずは交流試合と銘打って開かれたが、翌年からは正式に全日本選手権となった。
この大会は第2回世界選手権の選抜試合と位置づけられた。だからルールは世界選手権と同様に行なわれた。
このように、女子部を筆頭とした、少年部、壮年部の充実は、松井新体制になったからこそ実現できた「成果」だといえるのではないだろうか。

●全日本選手権に組み込まれた第2回女子世界選手権

大会の開催を機に、日本の女子部は飛躍的な成長を遂げた。それは昨年11月に開催された第2回世界選手権で証明されたといえる。
前回はベスト16に2名入っただけだったが、今回は軽量級で江口美幸が準優勝、中量級で村上智美が3位、重量級で今井布美が準優勝と、各階級に1名ずつが入賞している。もちろん、日本での開催ということも影響していたと思われるが、それでも十分に評価できる結果である。
それでも、私には拭い去れない不満が残った…。
第2回世界選手権という場において必死で闘う彼女たちの姿をどれだけ多くの観客たちが真剣に見ていただろうか? 私はこの大会を通して、やはりまだまだ女子部の地位が低いことを痛感せざるを得なかった。
そもそも、第2回の女子世界選手権はブラジル支部主催で昨年1月に開催される予定だった。しかし、諸々の事情からブラジルでの開催が難しくなったという理由で大会の開催は延期、一転して未定となってしまった。その後、大会に向けて稽古を積んできた選手たちはいつ大会が開催されるのかもわからずに稽古を続けることになった。
第2回女子世界選手権が日本で第30回全日本選手権と同時に開催されることが決定したのは、大会の半年ほど前だった。いわば男子の大会の添え物的な扱いしかされなかったともいえる。そのような部分に、まだまだ大会の整備の遅れと同時に、女子の大会に対する主催者ならびに関係者やファンたちの意識や関心の低さが読み取れる。
毎年開催されている男子の全日本選手権の日程はすでに1年も前からわかっていることだ。それに向けて選手たちは調整をしていく。それこそたった1週間試合日がずれただけでも、調整方法は変わってくるはずだ。
しかし、前述したようにいくつもの曲折を経たのち、第2回女子世界選手権は、第30回全日本選手権と同時開催というかたちに落ち着いた。
大会日程は2日間。初日は非公開で行われ、2日目の準決勝は男子の全日本選手権の初日に、そして決勝は全日本の2日目に、というように、男子の試合の合間に行われた。
そこには、女子にも華やかな陽の当たる場所で試合をさせてあげたいという主催者側の配慮があることは理解できる。選手たちにとっても、そのほうがやりがいはあるのかもしれない。
しかし観客は、やはり全日本選手権の添え物的存在としか女子の試合を受けとめていなかったのではないだろうか?
それは1997年に男女一緒に開催された世界ウェイト制選手権でも同様だった。女子の試合になると、休憩時間と勘違いしてるかのように席を立つ観客が多かったことは間違いない事実である。
今後、本当に女子の大会を充実させていこうと考えているならば、やはり非公開であっても独自に大会を開催していくべきだと私は思う。
柔道の女子大会も、現在でこそ田村亮子などのスター選手が出てくるようになって盛況ぶりを見せているが、開催当時はそれこそ身内だけでやっているような小さな大会だった。それでも地道に女子だけの大会を続け、回を重ねていくごとに選手たちのレベルは上がっていった。その結果、現在のように全国レベルで認められるようになっていったのである。
まだ2年の歴史しかない極真空手の女子部である。当然、何十年もの間、肉体的な強さのみを求め、一般の若い男子を中心に受け入れられてきた極真空手の世界で、その地位を認められるまでには時間がかかるだろう。しかし、たった2年の間に飛躍的な成長を遂げていることから考えても、着実に試合を重ねていけば、いずれ柔道のように男子と同等な地位を築けるに違いないと私は思う。
そして、女子部や壮年部、少年部の大会が整備されたとき、極真会館は真の意味で武道団体として、さらに広く認知されていくことだろう。 続きを読む

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2007年07月20日

塚本佳子・作品集/いま極真会館が求められているもの(1)

塚本佳子・作品集/
「いま、極真会館が求められているもの 極真空手と武道」(1)

from「新極真空手」5号
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K-1など、エンターテインメント色の強い格闘ショーがもてはやされている現在、過去一貫して「武道精神」を掲げてきた極真会館に、大きな変化が生じつつある。
極真会館の変化の正否を問う。


/見時代…第6回世界選手権から第30回全日本選手権

●分裂乗り越え大成功に終わった第6回世界選手権

割れんばかりの歓声が、東京体育館を包み込んでいた。その歓声を一身に浴びていたのは2名の屈強な男、数見肇とグラウベ・フェイトーザだった。
1995年11月5日、第6回世界選手権・準々決勝。本戦、スロースターターである数見にとっては厳しい試合となった。ある面、数見の弱点ともいえる出だしの悪さをグラウベは熟知していたのだろう。グラウベは本戦で一気に勝負をつけるべく積極的に攻撃を仕掛けていった。
しかし、数見は持ち堪えた。
グラウベの思惑は外れ、本戦は引き分けに終わった。そして、延長戦に入ったことで会場内のボルテージは最高潮に達した。


過去5回行なわれた世界選手権では、すべて日本人がチャンピオンに輝いている。もちろん6回目となるこの大会でも、空手母国日本としては、絶対に譲ることのできない王座であった。
しかし、回を重ねるごとに急速に外国勢は力をつけ、すでに20年前…第2、3回大会から日本の玉座転落は時間の問題だといわれて続けてきた。
とはいえ、これまで世界王座を死守してこられたのは、空手母国の威信を背負った日本選手のプライドからだったのだろう。
そして、やはり第5回大会以上に日本の危機が叫ばれた第6回大会、日本の牙城をもっとも脅かす存在として注目を集めていたのがブラジル勢だった。なかでも、グラウベとその兄弟子であるフランシスコ・フィリォの強さはグンを抜いていた。
ちなみにフィリォは、極真会館の修行の中でもっとも苛酷だといわれる「百人組手」を、ひとつの黒星を喫することなく成し遂げたほどの猛者である。
過去、百人組手を達成できたのはフィリォ以外に5名だが、黒星もなく百人と戦い続けた人間はフィリォ一人だけだ。いかにフィリォが「世界の脅威」と呼ぶにふさわしいかがわかるだろう。
「誰がブラジル勢の勢いを止めるか!」
大会前、多くの格闘技雑誌がこぞって予想を繰り返していた。また、ファンの間でも同様な議論が重ねられていたに違いない。


そして第6回世界選手権には、初めて王座を海外勢にもっていかれるかもしれないという以上にもう1つ、懸念されていたことがあった。それは大会開催自体の危機だった。
第6回世界選手権を11月に控えた年の春、極真会館は4半世紀の歴史のなかで、もっとも混乱した時期を迎えることになった。
組織分裂…。
大山倍達総裁亡き後、極真会館は後継者問題をめぐって大きく揺れ動いていた。大山総裁か遺した遺言に従って松井章圭が2代目館長を継いだ形になってはいたが、松井の2代目就任の直後から、松井館長に対して異議を申し立てる支部長が出てきた。
結局、極真会館は松井章圭を「館長」として認める人間と、そうでない人間とで成り立つ、2つの組織に分裂してしまった。
世界選手権の前年に開催された第26回全日本選手権当時、極真会館はひとつの組織として大会を開催した。この大会で翌年開催される世界選手権の出場メンバー8名が決定していた。
しかし、分裂騒動後、極真会館はひとつに収集されることなく、それぞれの組織が世界選手権を開くという異常事態を迎えることになってしまった。
ただ、すでに決定していた1995年の11月に東京体育館で開催される大会は、松井館長率いる極真会館の主催ということに落ち着いた。そして分裂の結果、すでに決定していた8名のメンンバーのうち、3名が松井館長側の世界選手権に出場することになっていた。逆にいえば5名の選手が松井派を離れた松井の元を離れることになった。
そういった混乱状況ゆえに、「空手オリンピック」と呼ばれている4年に一度の世界選手権がきちんと開催されるのか、またいつものように盛り上がるのだろうか。そう懸念したファンは多かったことだろう。
しかし蓋を開けてみると、これまでに行なわれた5回の世界選手権と同等、いやそれ以上に観客を魅了する結果となった。


冒頭にある準々決勝…。
この試合は、本戦こそグラウベ優勢に進んでいったが、延長戦に入り時間を経るごとに数見が挽回を見せ始めた。そして、日本の王座失脚も、組織分裂の後遺症も、結局は杞憂に終わるであろうことを予感させる試合展開となった。
これまでの闘いぶりからも、グラウベの強さは噂に違わぬものだった。しかし、観客の大多数は日本の牙城を守ろうと必死で闘う数見に、自分の熱い思いを重ねていたのではないだろうか。
実際に私自身、思わず仕事を忘れ、一介のファンとして数見の勝利を願った一人だ。
会場内に「数見コール」が響き渡る。それは、最近の極真会館主催の大会では、めずらしい光景だった。試合場下のセコンドについている同門たちが、選手を盛り上げるために喚声を張り上げることはあっても、観客がセコンドと一体となって一人の選手に声援を送ることは近年では稀な光景である。しかし、この日のこの試合、確かに大多数の観客の気持ちは同じ方向に向かっていた。
その声援に応えるかのように、試合後半、数見は大逆転を見せ、下段回し蹴りによる「一本勝ち」で勝利を収めた。
そして、その興奮も覚めやらぬ準決勝。
数見はグラウベの兄弟子であるフィリォとの対戦を迎えた。
再び会場内の雰囲気が「打倒! ブラジル」へと向かった。前述したように、グラウベ以上にその強さが認められていたフィリォである。ここで数見がフィリォを止めなければ、初の外国人チャンピオン誕生の確率がきわめて高くなる。
グラウベ戦以上に、数見の肩には「勝たねばならない」という大きな重圧がかかっていたはずだ。
試合はほぼ互角のまま、本戦、延長1回、延長2回、そして体重判定と続いた。だが、それでも勝敗は決まらなかった。残るは試し割り判定のみである。
「両者の試し割りの枚数を発表します」
アナウンスがかかった。その瞬間、これまでとは打って変わって会場内は静まり返った。
「フランシスコ・フィリォ選手22枚、数見肇選手24枚!」
この瞬間、東京体育館内に怒濤のごとく拍手が沸き起こった。
結果的に、数見は決勝で先輩である八巻健弐に敗れ準優勝に終わったが、本当の意味で外国勢の勢いを食い止めたのが数見であったことは誰もが認める事実だろう。
そしてこれが、現在も続く「数見時代」の幕開けだったといえる。

● スタートを切った第7回世界選手権の選抜

あれから3年、第7回世界選手権の選抜を兼ねた全日本選手権が開催された。また、今回は30回という節目の大会でもある。
毎年大会が近づくと、マスコミが騒ぎ立てる優勝者の予想だが、相変らずこの第30回大会でも各誌面を賑わしていた。
しかし、過去の例を見ても、今回ほど「本命」が揺るぎないものだったことはないだろう。チャンピオンはほぼ間違いなく「数見肇」であろうというのが大方の予想だった。私自身、数見の安定性から見ても、また他の選手のレベルから見ても、数見の優勝を疑うことはなかった。



数見が初めて全日本選手権に出場したのは1992年の第24回大会である。
初出場ながら、数見は準優勝に輝いた。数見が注目され出したのはここからである。そして翌年に開催された第25回大会で優勝したことにより、前年の活躍がフロックではなかったことを自ら証明した。
第26回全日本選手権は、翌年の第6回世界選手権の選抜試合も兼ねていた。この大会で数見は3年連続して決勝進出を果たし、同時に世界選手権の切符を手にした。
ただ、3年連続して決勝進出を果たしても、全日本選手権で優勝しても、年齢や経験からいってまだまだ日本選手を引っ張っていく立場として数見はさほど注目されてはいなかった。
第6回世界選手権出場メンバーの先頭に立っていたのは、同大会で優勝した八巻であり、世界選手権2度目の出場となった田村悦宏、伝説の強豪・黒澤浩樹らであった。
それでも…前述したように、第6回世界選手権では決勝戦でこそ先輩の八巻に敗れたものの、もっとも活躍しファンの心に残る試合をしたのが数見である事実は疑いがない。
そして、世界選手権の翌年に開催された第28回全日本選手権。世界チャンピオンとなった八巻が現役引退を表明していたこともあり、準優勝者の数見が実質上のディフェンディングチャンピオンとなった。
この大会、数見は厳しい闘いを強いられた。試し割りで右腕の骨が折れ、準決勝では膝の靭帯を損傷した。すでに肉体的な消耗は想像を絶するものだった。それに加え、決勝はオーストラリア支部の業師、ギャリー・オニールとの対戦である。前年に行なわれた世界選手権よりもさらに精神的な重圧は大きかったはずだ。
しかし、その重圧を跳ねのけ王座を手にした数見は、翌年の第29回大会も制し、実に6年連続決勝進出という快挙を続けつつあった。


極真会館には、世界選手権の翌年に開催される全日本選手権で大波乱が起こるというジンクスがある。そのなかで未知の新人が台頭してくるケースは多い。
ところが、第6回世界選手権の翌年に開催された第28回全日本選手権どころか、第29回大会でも若手の目立った活躍は見られなかった。結果的に数見の独走を許してしまっているのが現状である。
なぜ、新しい世代の選手が育ってこないのだろうか。
理由としては、ふたつの根拠が考えられる。
まずひとつは、やはり組織分裂の後遺症である。単純計算をすれば、分裂によって、当然選手数も半分になったと考えられる。第26回大会で選ばれた8名の世界選手権出場メンバーのうち、松井館長側の組織に残ったのは3名に過ぎなかった。分裂によって選手層が若干薄くなってしまったことは否めないだろう。
ふたつめの理由は、これもひとつめの理由からの派生だが、そもそも第6回世界選手権に出場した大多数が、もともと若手であり、上り坂にある選手だったということだ。
過去、世界選手権には全盛期を過ぎたベテラン勢が出場するケースが多く、結果的に選手たちはそれを機に現役を引退する。そこを 狙って新人選手が活躍し出すのがこれまでのパターンだった。
しかし前述した理由から、その後の大会ではすでに世界選手権で頭角を現していた選手たちの闘いとなった。
ただ、分裂の後遺症として、若手選手が過去の通例よりも早く大舞台を踏んでしまった部分はあったにせよ、世界選手権から3年が経過した現在でも、新世代の選手が数見を脅かすレベルに達していないという事実は否定できないだろう。


第30回全日本選手権大会。
大方の予想どおり圧倒的な力で数見が優勝した。しかし、数見にはまだ及ばないものの、第28回大会や第29回大会と違い、3位に入賞した木山仁や4位の野地竜太など、新しい芽が育ってきているのもまた事実である。
野地に関しては、第28回大会で岩崎達也にKO勝ちをするという鮮烈なデビューを飾ったものの、その実力についてはいまひとつフロック的な見方が消えなかった。ところが、今大会で再び岩崎からKOを奪い、しかも4位に入賞したことによって、「打倒! 数見」の最右翼として認められたはずである。
第30回大会は今年開催される第7回世界選手権の第一次選考会でもあった。ベスト8に入賞した選手はすでに世界選手権への切符を手にしたことになる。
木山や野地など、半数が世界選手権初出場の選手である。数見に少しでも追いつけるように、そして追い越せるような力を1年の間に身につけてくれることを、多くの関係者やファンが望んでいるはずだ。 続きを読む

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2007年07月19日

小島一志・作品集/「格闘技 史上最強ガイド」(5)

小島一志・作品集
「格闘技 史上最強ガイド」(5)


劇画『空手バカ一代』で有名になった芦原英幸の実像

芦原英幸は元極真会館の支部長で、梶原一騎原作による劇画『空手バカ一代』で扱われて以来、「ケンカ十段」というニックネームとともに空手界最大のヒーローとなった空手家である。
その強さは空手界のみならず格闘技界に比類なく、数々の伝説を残してきた。
芦原は1944年12月4日、広島県佐伯郡に生まれた。小学校から中学にかけて剣道を学ぶ。1960年、上京した芦原は自動車整備会社に勤めながら「喧嘩三昧」の生活を送る。たまたま街の電柱に貼られていた「空手道場生募集」というポスターを見て大山道場に入門。これが後の極真会館である。
数年で初段を取得した芦原は、1964年、極真会館の正指導員となる。1967年、西日本に極真空手を普及することを当時の極真会館館長である大山倍達から命じられ、まずは拠点を四国愛媛県に置く。
1970年、八幡浜に常設の道場を建設。続いて1979年、松山市内に芦原道場(極真会館愛媛支部)を構え、その後、大阪や兵庫にもその勢力を広めていった。
1980年9月、極真会館を離れた芦原は、「芦原会館」を設立。芦原独自の技術を「サバキ」として体系立て、その勢力を全国さらには世界中に拡大している。
1995年4月24日、逝去──。
芦原の伝説は数多い。極真会館の道場生時代、池袋や新宿の歓楽街を歩いてはガラの悪そうな不良を見付けると、「もし暇なら僕と喧嘩をしてくれませんか」といいながら大立ち回りを演じたという逸話は有名だ。
また四国に渡ってからは、四国中の空手道場を片っ端から訪ね歩き、「ひょっとして、それって空手?」という決まり文句をいってから道場破りを繰り返したともいう。
本物の芦原のキャラクターはまさしく破天荒であり『空手バカ一代』の中で描かれた芦原英幸そのままだった。だが、芦原は決して喧嘩好きなだけの跳ねっ返り者ではなかった。
極真会館の元全日本王者の某氏は、「芦原先輩は現在の極真空手の基本となる動きを作った人です。下段蹴りや後ろ回し蹴り、下突きといった今ではポピュラーな技術はみんな芦原先輩が使い出したものです」と語る。
また、ある極真会館関係者は、「昔、オランダからきた大男の空手家がいて、本部の指導員や道場生は誰も勝てなかった。そんなオランダ人を簡単に倒してしまったのが芦原先輩だった」と当時を振り返る。
実際、芦原会館を設立してからそのキャッチフレーズにまでなった「サバキ」は、芦原が極真空手時代から実践していた技術である。敵の攻撃を自らのポジションを変化させることによって受け流し、敵の死角を制してから反撃に転じるテクニック…これがサバキである。
芦原は試合全盛の空手界にあって、何よりも武道として、そして護身術として実際に使える技術の追求と、そのための稽古体系の確立に情熱を注いだ。それは並みの空手家ではできない高度な作業だったことはいうまでもない。
芦原英幸という人間が『空手バカ一代』の中で描かれた虚構のヒーローではなかったことは明白な事実である。生前の芦原はサバキの体系を追い求める一方で、芦原空手の競技化に向けて試行錯誤を繰り返していた。
芦原の生前、芦原会館では極真会館にならったフルコンタクトルールによる組手の他に、グローブ着用によるキックボクシング・スタイルの練習も採用していた。
現在、格闘技界を賑わしているK-1は元芦原の弟子だった石井和義の考案とされている。しかし、K-1の原点が芦原空手にあったことは疑いない事実である。



(「格闘技 史上最強ガイド」青春出版社/1999年8月1日発行・第2章「これが武道・伝統格闘技の真髄だ」からの抜粋)


※小島
現在、芦原氏の長男・芦原英典氏(2代目・芦原会館館長)による著書「我が父 芦原英幸」(新潮社)を製作中。年内発売予定。

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